こんにちは。フィナンシャルクラブ理事長の入山です。
1990年1月から始まったバブルの崩壊の話しをしましょう。
上り坂より下り坂が早いのは世の常であります。バブル崩壊前夜、あらゆる痛み止めの為の施策が行われました。この施策は過去の経験に照らしたもので、例えば、金融引き締めは三重野氏が日銀総裁として登場しました。様々な急ブレーキをかけた三重野氏は平成の“鬼平”とはやされました。マスメディアの報道振りは“正義”の名の下に関与者を切って捨てるものでした。
その中で冷静に判断し語るエコノミスト、政治評論家は皆無だったと思います。全てが悪いのではないのですが、一億総なんとかという日本人の国民性の悪さが出たような気がいたします。良い時はほめず、悪い時はけなす・・・というような。いずれにも勝馬には乗りたいという嫌な面が多く見られました。
いつの世にもバブルが発生するのは「国家、法人、国民の意志のベクトルが一つになった時」、バブルの崩壊は「国家、法人、国民の意志のベクトルが一つとなり、突っ走る行く末に風船が膨張し、そしてほんの針の一穴で爆発する」のです。
針の一穴は1990年において何であったか、「制度の隙間と矛盾、そして噂」だったのです。これには心なき報道が深く関わり、正義の名の下で「裁く」のです。現在は20年前と酷似しているのではと心配しています。
1990年正月に報道された「ゴルバチョフ暗殺」のデマ、これはメディアによって流され、これを仕組んだのが「某外資」で且つ「貸し株操作」でありました。(次回に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、2008年7月フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。2009年11月同職を退任、現在同社理事長。
こんにちは。フィナンシャルクラブ理事長の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
1990年、土地価格の急騰を抑える為の土地取引届出制を法制化した所謂、国土法の価格抑制策等について話しをします。
確か200坪以上の土地に対し、特定の地域の取引を届出制にすることとなり、上限価格が発表されました。しかしながら、その取引価格は、土地代金とは別の形で決済して良いということになりました。上物の建築価格に40%強上乗せしても良いというもので、これにより、無理やり建物を建てて清算をすることが横行したのです。バブル期にはエンピツビルが数多く建ったという異常な光景を見ることとなったとも言われています。
地上げ中断のトラブルが多発したのは、地上げの論理により、先ず取りまとめる対象の土地の住人を追い出すことから始まります。デベロッパーの言い訳によると、国土法や融資規制により開発がストップされ、地上げ途上での費用の負担を巡ってトラブルが起き、様々な事件を引き起こすことになったのです。
この様な道筋で、金融緩和から土地投機が起こり、そしてバブルが破裂、失われた10年へと歴史が展開していくのでありました。
そしてどうしても一言言わねばならないのが、IT革命によって登記制度にもたらされた影響です。
1990年代半ばより始まった和製コンピュータ会社による登記所のIT化によって引き起こされました。先に述べた様に簡単に分割できない伝統的な日本の土地制度を根底からひっくり返すことになったのです。
これは、登記システムのIT化により、土地所有者の細分化を可能にすることで、後にリート(不動産投資信託)と呼ばれる不動産ビジネスの発展につながった次第です。勿論、これだけの理由ではありませんが・・・。
日本のバブルの生成は、米国のサブプライムローンの証券化によるバブルと実は似ていると思われます。日本も米国も、政・官・民の連鎖がバブルの生成と展開に繋がっていくのでした。
唯、日本と米国の圧倒的な違いは、日本のバブルは1国に限定され、国と個人の資産が大きく損なわれたという点でした。
これに対し米国は世界を巻き込み、サブプライムローンがノンリコースであったことで、損失を引き受けたのが金融機関と金融商品として購入した世界中の国々の投資家が被害を蒙ることになるのです。結果的には、納税者たる国民がいずれも最終的に負担することになることには変わりはありません。政・官・民を充分ウォッチし、チェックし、又、読み取る知識を一人一人が学ばねばならないと痛感するのです。
この様な背景の下、1990年に株の大暴落が始まり、真っ逆さまに墜落していった訳ですが、その幕開けは世界でマーケットへ流された1990年1月3日のゴルバチョフ暗殺のデマから始まりました。
投機筋による陰謀が次から次へと出され、日本の制度や慣習の矛盾を、世界中の外資系投資会社に狙われてしまい、大ばくちの果てに、莫大な損失を蒙ることになるのでした。この時ばかりは本当に悔しかったのであります。(明日に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、2008年7月フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。2009年11月同職を退任、現在同社理事長。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
地上げの論理と、なぜ道路行政に注目が集まるのか、そして土地を金融商品化した経緯について話しましょう。
それではメカニズムをお話ししたいと思います。きっと“なるほど”ということになります。
まず、容積率はどのように決められるのか。ずばり、面する道路の幅で計算されるのです。
例えば、前面10m・側面10mの場合、1000%(建ペイ率と高さ制限によって、建物の階数が計算されます。)、前面10m・側面5mの場合、500%ということになります。

これを、A・B・C・Dが共同して1つの土地(1筆)にすると、10m×10m=1000% となり、4者合計で、4000%÷4人=1000% /1人となり、1人あたりの容積率562.5%→1000%になり、土地4分割を1つにまとめると容積率が437.5%アップし、地上げのメリットが計算され、価値を創造したと言われることになります。つまり、「地上げは社会貢献だ」と関わった怪しげな紳士が言うのです。 これは、大雑把で判り易く説明した例なので、専門家から見て異議が唱えられるかも知れませんが、考え方として「こうだ」ということで理解して頂きたいのです。
この様な背景で、土地バブルの中心プレイヤーとなったのです。
道路工事の切なる声、これは一言で、拡幅工事や改良工事で前面・側面の道路幅が拡張されれば、単純に容積率が上がり、土地価格がアップする訳で住民の利益を造り、選挙民に喜ばれることで政治家として外せない地元利益誘導策だと、これ以上言うことはないのです。(来週に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、2008年7月フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。2009年11月同職を退任、現在同社理事長。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。今回は、1990年の不動産バブルのメカニズムについて語りましょう。
バブルの生成に欠かせないのが土地です。不動産バブルは土地に対する日本人の価値観と仕組みに大いに関係がありますが、1990年をピークとしたバブルについて記憶を頼りに回想してみたいと思います。
この話しも当然の帰結として、充分推測出来たものだと思いますが、政・官・民の一体で展開されたものです。
これに便乗した輩が徘徊した時代でもありました。つまり、暗闇の紳士達が活躍する時代でもありました。
土地神話から話しは始まります。日本は土地本位制経済とも言われる由縁は、1590年代太閤検地にまで逆上ると思います。それは民に対する年貢(税金)取立ての為の台帳が始まりで、これが登記(所有権)、価格(評価)決定のメカニズムとなっていったと考えられます。
すなわち、形状毎に、例えば建ペイ率、容積率が細かく取り決められ、この結果、目的別に複数の土地価格が出現することになるのです。分類としては課税、売買、相続、鑑定、そして路線価という一物数価が仕立てられることになるのです。
一般的に土地の価格を決める大きな要素は建ペイ率・容積率です。これで建てられる建物の大きさが決まり、この大きさで価格が決まるのです。
さて、この建ペイ率・容積率はどの様に決まるのか。これは地方自治体で、それぞれ立地条件、例えば住宅地、商業地等によって分類され、それぞれに容積率を計算するものです。
それでは、容積率はどの様な方式で決まるのか、これが大変重要なもので、地上げの論理や道路拡幅の政治的テーマに深く結びついて行くのです。そして、これらの権利を顕す登記簿謄本・権利書で全ての土地が語られることで、土地に対する絶対的な信頼が生まれることになるのです。また、保守的な登記所の業務、すなわち1990年代まで全て手作業で業務が行われ土地の流通性を損なわせることにより、ますます神話化し、安心して投機・投資できる対象となり、過剰流動性が土地に向かい、土地騰貴を招くといった、いわゆる土地バブルを形成して行ったのです。
表現を換えて言えば、発行に歯止めのあるものは価格が安定し、インフレヘッジも出来るということです。この国債が赤字国債である場合は値崩れするということになります。(明日に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、2008年7月フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。2009年11月同職を退任、現在同社理事長。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
1990年正月、日本の株価バブルは、資金がファンドを通じ、特定銘柄に大量に流されたことが一因だが、この原因をつくったのは、日銀の超金融緩和政策とブラックマンデー以降にも有効な手を打てなかったこと、信託銀行が暴走し、優良企業が乗せられたこと、これは当時の大蔵省の行政指導と言われた「公的年金の運用が認められる金融機関は運用実績が5000億円以上であることが望ましい」ということであったのではないかと言われています。
これにより、各信託銀行は自己の銀行勘定を優良企業に貸付け、自己の信託部門に預り資産として、ファンドトラスト、特定金銭信託に組み入れ、この資金で証券市場への株式を大量に買付け、株価の急騰を招いたことが原因の一つといわれています。
この話は、余りされていませんが、現場での動きはこの様なものでありました。
信託銀行と企業との間で、リスクと利回り保証で大論争が起こりました。いわゆる「握り」というものです。しかし、どうであれ摑まされた者が損をすることが実態で、これにおいて行政や司法がどちらに軍配を上げるかということに注目が集まりました。
サブプライムローンも金融派生商品である限り、掴んだ者が損をするのは明らかで、これ以上の真相解明は将来の歴史の審判に委ねられるのでしょうが、今までと同様30年間は情報公開されないのでしょうから「藪の中」と言うことになるのでしょう。従って2009年以降、この問題の解決がどの様に推移するかはよくウオッチしなければなりません。
日本とアメリカは同じ様な道を辿っていると言えなくはないのですが、いずれも意図的に仕組まれたものではないかと疑惑を持たざるを得ません。だから「推理小説」と言われることになるのです。(次回に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
記憶のみを辿りながら当時の事を思い出すこととするので不安ではありますが、今、世界を席巻しているサブプライムローンが引き起こした危機への道と酷似しているので、やはり伝えておこうと思いました。
それは2つの道がありました。
第一に、信託銀行が持っていた銀行業務と信託業務を両刀に使ったもので、併設の投資顧問会社が舞台でありました。
1980年代後半、信託銀行が普通銀行を抜いて冠たる地位を築いたかの如き錯覚を招いたものでした。即ち、超金融緩和時代の有り余った資金を信託財産(ファンドトラスト、特別金銭信託といわれた)に流す、これを信用力の高い企業に貸出仲介を頼むというものでした。
銀行勘定(貸付)→企業(借入・運用)→信託財産勘定(預り)というカラクリでした。
信託勘定では、特定の銘柄や債券、外貨に投資するもので、この間の資金も貸付け、いわゆる名義貸しのやり方をし、利回りや元本返還を約束するというものでした。(いわゆるサブプライムローンで言われたノンリコースということになります。)
この手口はサブプライムローンと酷似しているのでありました。
・日本のバブルメカニズム
(貸付) (預け入れ) (投資)
信託銀行 → 大企業 → ファンドトラスト・特金 → 株式・債券・外貨
・米国サブプライムローンメカニズム
(貸付) (購入) (売却)
銀行・証券会社 → 借主(低所得層) → 住宅 → 銀行・証券併営の投資会社で証券化して売却
日本のバブルは、証券市場が活況となり、株価が上がる→造られた株高シナリオ。
米国サブプライムローンは、住宅産業が活況となり、景気上昇、国家財政が潤い、税収入がアップする → 造られた住宅産業好況 → 造られた成長戦略シナリオ。
だが、問題はこの税収入が何に使われたのかと考えると計算上はイラク、アフガンの戦費が入り、本来米国の国家債務とも考えられます。世論では金融派生商品のクズを掴まされたと解されているのはとんでもない誤解ではないでしょうか。(明日に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
もう駄目かと覚悟を決めた時ブラックマンデーが発生したのですが、これで一命を取り留めた金融マンはそう多くはないのではないかと思います。
日銀は、プラザ合意以来緩和政策を続け、景気過熱を冷やす為引き締めに転換する方針を止めて超緩和策に入っていくのでした。
これが後のバブルの形成・崩壊へと歴史的な道標の第一歩だったと思います。
私は栄光へまっしぐらに登りつめ、1990年正月を境に地獄へ真っ逆さまに落ちていくことになるのでした。数値を紐解いてみましょう。
今思うと激しい乱高下でした。
サブプライムローンに端を発し、100年に一度の大不況と宣伝されている現在の変動と比べても、はるかに激しいものでありました。
当時は、日本のみに限定され日本対米国との対立軸で展開を行ったものであり、全世界を巻き込んだ今回の大不況とは僅か異なるものではないかと考えなければなりません。
少なくとも金融・経済戦争という観点から見て、1990年代のバブルの崩壊には勝ち国と負け国がはっきりしていました。日本は負け国でした。
今回勝利国はいないと思います。歴史を振り返れば過去100年どころか500年のレンジで顧みて検証しないと見透かせないと考えます。今回は金融・経済だけの話ではありません。世界の仕組みの大建て直しになります。政治・経済・民族・宗教、そして資源・環境を巻き込んでいく地政学上の大組替えが始まったと考えれば、歴史的な大展開ともいえるのではないか。
つまり覇権国の交代というべきものだと思います。
500年で考えると4回目の交代となるわけですが、団結と協調が欠けると応仁の乱になってしまうのです。
1990年1月1日 全てのピークが訪れたのは正月でした。しかし、ここに至る道筋には、私にとって栄光への道というものが用意され、これに踊ったとしか言いようのないシナリオがありました。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
1985年、世は正に不況プラザ合意で猛烈な円高になり、1987年のブラックマンデーで米国発の株価暴落、暗雲立ち込める霧の中のスタートでした。その時は、後にバブルに突入するとは夢にも思わずにいました。
1985年正月、財務部の元上司から1本の電話が入りました。「財務部へすぐ戻ってくれ。どうしても金融子会社を立ち上げたい、国内金融を大改革していきたい。君にやってもらいたい」という内容でした。私は「今の部署は1ヶ月しか至っていないので、1985年12月に移動でもよろしいでしょうか」と答え、話が決まり1985年末、財務部へ1年で戻ることとなったのでした。組織の三菱といわれるが、実際には人の三菱なのかもしれません。
1986年1月、真に2009年1月と似てよい天気に恵まれた静かな正月でしたが、1月1日元旦の日経新聞1面に「三菱商事金融戦略金融子会社設立か・・・」という文面だったと思いますが、新しい金融を目指し始動というものでした。
大激論の末、承認を得た国内金融子会社のことでありました。私は慌てて社名登記を確認したものでした。
いよいよスタートというなか、たまたま持病の椎間板ヘルニアの闘病生活が始まってしまい、3ヶ月入院生活を送ることになるのですが、1986年4月証券不祥事により市場が大きく崩れました。
私の会社も損失を蒙ることになり、その結果全てを振り出しに戻し、いよいよ金融課自由化の中インターバンクの時差を利用した資金運用を積極的に行いました。 金融子会社でもオペレーションの仕組みから金融動向の先読みができ、ことごとく的中したのです。
これにより自己資本がかなり増えることとなります。金利は上昇局面にありましたが、運用先行で調達金利をオープンにし、ショートポジションで臨みました。
毎日ニューヨークマーケットを気にしながらの睡眠は、4時間程度とれました。我ながらよくやるなと、44歳の若さと馬力で押し通しましたが、腰痛に引き続き、乾癬という病気が発生し、闘病生活が続くのですが、このような状況下でも金融戦争の真只中、1987年10月に入り、日銀は公定歩合の引き上げと金融引き締めは必至との状況だと言いましたが、ポジションはショート、即ち金利を固定した短期運用を多額に行い(1000億円位か)調達は変動金利のままで明日は公定歩合引き上げ必至と、今度ばかりは初の黒星と覚悟を決めました。
と、どうでしょうか、ニューヨークマーケットで起こったブラックマンデーの大暴落が襲ったのです。1987年10月19日、一瞬にして金利は下がり、勝ったのです。
運よく連戦連勝となりましたが、このとき資金の取引の怖さを知ったのでした。二度とゲームはしないと誓いました。 ニーズに応じたオペレーションが正道であることを知った出来事で、リスクマネジメントの大切さを身をもって知らされたものでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
漂流は、米国金利高が1976年から始まり、1986年までの10年間続き、また、原油も高騰・高止まりが続き、これらの背景により円安が続きましたが、これを梃子にして、その間日本は高度経済成長を実現したため、日米は最悪の貿易摩擦を招来することになりました。
しかしながら、日本国内政治は相次ぐスキャンダルにより(田中派が震源地)政治不信が募り、その傍ら、世界の紛争は止まるところを知らず、中東を中心に戦争の拡大と縮小を繰り返すのでした。
この結果、世界の至るところで資源の奪い合いが始まり、日本は第一次オイルショックを見事に乗り切ったことで、技術革新を付加価値向上による繁栄を享受したのでした。
しかし、経済一辺倒の国は、その後に少子高齢化と財政赤字の双子の問題により国力の低下を招くことになるのでした。
この間、富の蓄積は偏在し、その格差が社会の至るところで生じ、その後の格差社会に繋がっていくのでした。
この構造的な未病(みびょう)は、確実にボディーブローで効いてくるのであり、これに日米貿易摩擦が導火線となり、いわゆる極端な円高と低金利政策が、1989年末の株価最高値4万円へ一気に登りつめることになり、そして谷底へ転落、バブルの崩壊へと向かい失われた10年へと続くのでした。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
10年後には、昭和46年(1971)から平成23年(2011)の40年間は第二次疾風怒涛の時代(第一次はマルクス・レーニン時代)と位置づけられるかもしれません。
新しい大航海時代の幕明けに対する準備期間だったと位置づけられるのではないのでしょうか。新しい大航海時代とは何か。(旧)大航海時代が米国と欧州諸国とすれば、(新)大航海時代は大航海とは言わず、大陸横断時代と言われるかもしれません。海洋帝国諸国に代わり、いわゆるブリックス時代、ブラジル、ロシア、インド、中国いずれも大陸内大国であります。これに対し、日本は奇跡的な繁栄を一瞬享受した後、油断により大航海時代と大陸内時代の狭間で漂流してしまうのでしょうか。この危機は深く長いものだと思うのです。
それでは、再び1976年以降を辿ってみましょう。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
昭和46年8月は、ドルショック、49年12月はオイルショックが襲いかかり、蒙古襲来以来の困難となりました。
当時は、大変な不況に陥り、典型的なコストプッシュインフレだったと思います。結局不況と悪性インフレを乗り越えるために金融界も産業界もあらゆる方策と改革を重ねて乗り越えることが出来たのです。
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何が決めてだったのか。それは2つに集約されます。まず第1は、昭和46年以前の高度成長による体力増強、第2に、昭和50年以降の円高・オイルショックに対抗する技術革新による体質改善にあります。
そしてまた、企業のモラルが問われ、社会的な制裁を通じ、日本企業は自浄能力を問われた結果、経営力のアップに結びついたのでした。
加えて、昭和55年9月第二次オイルショック、同年12月米ドル金利プライムレートが史上最高の21.5%を記録し、世界は海図なき大航海時代を迎えることになりました。この間日本も例外ではなく、円も金利も株式も乱高下を繰り返し、更に政治も経済も新しい秩序に適合するのに必死でありました。これらの中で、特筆すべき事件に触れてみたいと思います。
売り惜しみ、買占め事件でやり玉にあがったのが総合商社でした。昭和49年12月、とうとう社会的制裁として、大口融資規制が発令され、貸出残高制限を設けられ、昭和50年4月から55年3月まで大手商社は資金を確保するのに必死なりました。
日本中津々浦々資金を借りまくり、全国行脚したものでした。私もその一員として当時13行あった都銀のうち5行、長信銀3行あったもの全部、そして地方銀行の半分25行を担当し、東奔西走しました。
夜討ち(宴会)朝駆け(朝食会)の連続で、行く先々で“日本の経済、金融、そして世界貿易の話しをし、情報提供した後、「ところで借増をお願いしたいのですが、10百万円お願いします」と急に身近な話しをしたのですが、お願いは「住宅ローン」並みにもかかわらず、銀行よりは「残念ですね。貴方なら10百万円貸せますが、商事さんではねえ。お上が許さないですよ。ご苦労様でした」との回答に、「ありがとうございます。いずれまたよろしくお願いします」と辞去するのみでした。
ある銀行は、「悪いけど、約定返済は実行して下さいね。貸し出しは四半期末に検討します」と借入金残高が純減となることもあり、「残念ですが、6月末にはよろしくお願いします」と言うのが精一杯でした。
その様な最中、会社に「日本銀行より産業金融勉強会を行いたいと言ってきている、商社代表として商事より一人出してほしいとのことだが」と役員より連絡があり、「それでは君に委員になってもらう。メンバーは都市銀行、長信銀、鉄ミル、自動車メーカー、M商事そして日本銀行だ。幹事は日銀、場所も日銀、窓口は特別研究室のKさんとSさんだ。Sさんに連絡とってくれ」というものでした。私は「白川さんをお願いします・・・」と電話を入れました。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
新入社員の頃(昭和40年)、上司からリスクマネジメントでの売りか買いかについてこのように教えられまた。
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上司から「見越しというものがある。売れていないうちに買うものを見越買い、買えていないうちに売るものを見越し売りという。いずれも売買金額に限度を設け、損失の場合の上限を決めて社内承認の手続きをしなければならない。しかし、見越し売りは原則的にご法度と思いなさい。理由は損失に歯止めがないからである。仮に損失が最大限いくらかといった場合、見越し買いは買った額だけが最大の損失である。見越し売りはいくらで買えるかわからないので、損失の天井を設けることが出来ないからである」と教えられました。
更に、「シカゴの定期取引というものがある。これには現物すなわち実玉が伴わなくても良い。いわゆる空売り、空買いである。先物(将来の実玉)は現在の実玉が手元になくても売買出来る、これを米国では“future”という、つまり「将来のリスクを回避する将」ということで、英語では“future heads future”という。穀物相場の鉄則である」と教えられました。
その後、通貨がシカゴ定期市場に上場され、更に原油等の商品が上場されるに至り、全てが“future heads future”という名の下に実在のない取引がヘッジという名で行われるようになりました。これが現在の金融商品といわれるものに発展していくのでした。いかにリスクは怖いか、これは学んで経験する以外に避ける王道はありません。この危険を承知でリスクに歯止めをかけ、損失切捨てルールを設定、国際金融マーケットに全天候型で臨む以外にはないと思うのです。
しかし、日本人は安土桃山の太閤検地の時代より、土地に絞られここから収穫する穀物をベースにしか先行きを考えることが出来ず、また、“金(マネー)”は“お上”の領域ということで400年も過ごして来ており、昨今の“お上”の行政指導で“危ない商品は売らない買わせない”とますます金融に疎遠になっていく日本人、これに対し、狩猟民族の西欧人は平気で“売り”をし、しかも先物に組み入れ複雑な商品を証券化する民族に日本人は到底
勝てないとまず考えた方が良いと思うのです。
しかし、国際社会で生きることが必要な“富める国 日本”は西欧に互すまでにはいかないにせよ、“知識”だけは身につけ、充分に“シュミレーション”し、自らのリスクの許容額を知った上でも参加しないほうが良いと申し上げたいのです。まずは“己を知る”ことなのです。(明日に続く・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
国内経済は、ドルの固定相場が変動相場へ移行することにより、国内市況は通貨相場に影響を受けることとなり、いよいよ国際マーケットに組み込まれていくのでした。
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為替のディーリングは外国為替専門銀行(旧東京銀行)への集中から、
外国為替公認銀行、いわゆる都市銀行を中心とした普通銀行に解放されたものの、外国為替は銀行に集中されたままで管理されました。しかし、原料が輸入されている国内での商品の売買は外貨建てで価格が決まり、輸入時のレートで決済されるもので、既に穀物相場は米国、シカゴ定期取引相場により、決定づけられ、運賃、保険ともに外貨建てで決められているのです。
これはしっかりと認識せねばなりません。今でも言われる市場原理主義と
言われるものの歴史は、1971年からはじまり、既に40年に至るものであります。このことを我々は自覚せねばなりません。未だ鎖国しているかの錯覚
を抱いている政治家、マスコミの多いことに驚きを感じます。
我々の穀物の相場が決定されるシカゴ定期の原型は、日本の米相場を手本にしているのです。米の先物は江戸時代の大名が財政難に陥り、
「来年採れる米を買ってくれ」と堺の豪商に申し入れたことに端を発すると言われています。これは農耕民族としての先物に対する知見の限界であろうと思います。住んでいる土地から離れられず、その範囲で物を考え、他の土地から買う(取ってくる、あるいは奪ってくる)という発想はないのでしょう。
狩猟民族は、自分の所で獲れなければ他の領地から奪うか、あるいは売っている先を殺すかといった性癖があるので“売る”ことには平気なのだと言われています。これに対し農耕民族は、買うことが前提で精々先物を売っても自分の領土で獲れる物量の範囲でしか売れないのです。
農耕民族の日本人は、買いが得意、狩猟民族の西洋人は売りが得意、これを見れば金融マーケットでの勝負は明らかです。臆することなく売る西洋人には勝てるわけがありません。だから、金融を勉強しなければならないのです。
来週は、リスクマネジメントで売りか買いかといったものを更に解説しましょう。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
為替相場の自由化は我が国に何をもたらしたのか。いわゆる、国際化のスタートであったと思います。
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日本は食料やエネルギー、そして原材料を外国から輸入、それを技術と文化による加工技術付で加価値を高め、製品として輸出することにより成り立つ国家です。したがって、国内の価格の構成は外貨が占める割合が高いというもので、決して円のみで成り立つものではなく、ドルで決められる価格があるのだということをあることを円/ドル相場の変動により、生活としても実感することになるのでした。
国は政策として、ドルが不足している時代は外貨を集中し、対外決済
に支障が起こらぬよう、外貨準備高を国家管理とするものでした。
それが昭和40年までは金融政策の要でありましたが、高度成長期に
入り、輸出の飛躍的な伸びにより、外貨準備高も潤沢となり、いわゆる外貨準備高至上主義という呪縛から解き放され、日本は高度成長の中、飛躍的に経済力をつけ、世界マーケットの中で主導的な役割を演ずることになるのでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
「吹原弘宣事件」とは、銀行の通知預金証書を使い、1日の時差を利用した詐欺事件です。記憶では、当時でも30億円の大金だったと思います。
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これは、小切手を振り出し、通知預金を設定したのですが、小切手は手形交換所にまわり、翌日の決済となるものだったのに、この小切手で通知預金証書を発行し、まだ資金化していないこの証書を担保に資金を借入れ逃亡してしまった、というものでした。
新入社員の私は、通勤途上の新聞で知り、続々と発生する不正と倒産に身の毛もよだつ思いをしたのでした。
昭和40年は東京オリンピックの宴の後で一転し大不況。これは、急速なる需要減により招かれるもので、当時はその様な反転はよくあるものでした。
しかし、反落に対し、反転攻勢もあるダイナミックな時代の始まりでもありました。つまり、一方的な上昇ではなく、上がったり下がったりの当時の経済学者が著述した鴈行的経済発展というものでした。
昭和45年、繊維産業は対米摩擦により死命を決しられました。家業はとどめを刺し、二度と立ち直ることはありませんでした。米国はいわゆるモンロー主義といえる貿易障壁を設け、自国経済を守るありとあらゆる改革をとりました。
先進国のなかで最初に挫折したのが英国でした。自国通貨ポンドを守れず一気に切り下げし、1ポンド1008円が昭和42年には864円に減少、次から次へとポンドが下落していくのでした。
米国は双子の赤字、すなわち貿易と財政の赤字を回復するために、保護貿易と財政赤字の他国への転嫁を行ったものの、結局、昭和46年8月、固定相場制から変動相場制へ移行することになったいわゆるドル・ショック(=ニクソン・ショック)といわれるものでした。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
昭和30年初頭、北海道のあずきを巡って仕手戦が展開されました。小説や映画、ドラマで一世風靡した「赤いダイヤ」事件であります。
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買う側と売る側に大手商社がバックに付き、北海道のあずきの仕手戦
が行われ、売りにまわった穀物商に大手商社があずきを買付け、買いにまわった穀物商に大手商社が資金を出し、泥沼化し、北海道農家を巻き込んだ仕手戦となった。これ以上の戦いは破綻を招くとして、いよいよ融けあうこととなり、それぞれが契約を実行する段になり、倉庫会社が発行する倉荷証券を受け渡しすることとなりました。
いよいよ現物を差し出すと、倉庫のうちは空っぽ、いわゆる「空荷」事件となり引渡しが出来なかった側に莫大な損失を蒙ることとなりました。
世に言う「赤いダイヤ」事件です。この事件に同一ではないのですが、家業の場合は、寄託を受けた在庫が横流しされたケースで空荷事件と同で、莫大なる損失を発生することとなりました。倒産に至ったことには変わりありません。
昭和40年不況を待たず倒産した訳ですが、40年は山一証券倒産、山陽特殊鋼倒産といった大不況でした。しかし、不正は更に金融の世界で世紀の大詐欺事件が起こるのでした。いわゆる「吹原弘宣事件」です。(次週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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昭和39年まで時を戻しましょう。オリンピック景気に沸いている頃、家業はとんでもない経理の責任者により不正が行われていることに、経営陣は誰も気がついていなかったのです。その頃、不正はいたるところで横行していました。家業の崩壊もその典型であったのです。
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「官僚たちの夏」は政治と行政と産業いわゆる政官財のトライアングルのドラマでありますが、実際の現場では不正、腐敗、モラル崩壊が横行していて、これらのことで企業が滅んでいくのは日常のことでありました。実際の倒産は、企業経営では裏話しであるものの、結局「細部に宿る」という典型なものなので話しをすることにしました。当時の中小企業は資金不足であったためビジネスモデルとして様々な方法が編み出されました。繊維産業は歴史的にも最も資本主義的な方策を取られていました。
それは、大企業が原料の糸を海外から買い付け、これを中小企業に寄託(貸し出すことで所有権は大企業に在る)し、これに企画提案に基づき見本をつくり、市場にサラウンドしたうえで下請けの織屋(多くは家内工場だが大手企業の工場も参加していた)が大量生産し、国内、海外に向けたブランド企業を通して販売するというビジネスモデルで、実に原料手配、生産、販売そしてブランドを付し、これらの必要資金と流通を大手商社が行うといった今考えると完璧なビジネスモデルであり、マーケットリスクをミニマムにした構造でありました。それぞれの分野で役割を担っており、これらの企業は政治と産業構造変化と技術革新という荒波を受け、その後いばらの道を辿り、生き抜いた者が現在の隆盛を極めるのでした。その代表が東レ(当時、東洋レーヨン)かと思います。事業の多角化に成功し、何度も危機に見舞われましたが、その都度事業を転換していき、生き残ったのです。
しかし、この繊維のビジネスモデルには死角がありました。この死角に潰されたのが私の家業でした。この死角とは、大手企業が寄託した原料にありました。
大手企業は信用で原料を貸し出すので、中小企業の帳票には記載されるものの、勘定には載らないのが慣例だったと思います。
そこに、経理や現場の管理者が結託すれば、借りたはずの原料が持ち逃げされ、大量の横流しにより多額な損失が発生するのでした。つまり、在るべき物はなく、製品化されるべき原糸はないのです。したがって、大企業は信用で預けた原料が横流しにあったことになり、中小企業が現物もしくは現金を返せなければ焦げ付くことになり、中小企業は赤字を計上することになるのです。これが「空荷」というものになるのです。
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
「官僚たちの夏」、最終章を見ました。家業が戦前から戦後にかけて中国大陸を中心に繊維産業に携わっていたので“倒産そして再起”と昭和20年、30年、40年と亘り、国家の変遷と経済の構造転換そして日米交渉と国際関係の狭間に揺れ動いていたのも至極当然のことでした。
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「官僚たちの夏」に出てくる日米繊維交渉が、家業の息の根を止めたのは時期的にも符合する昭和45年でした。そしてそれから10年後、家業の借金を周りの方々の協力を得てやっとの思いで返すことができました。これも一重に債権者の方々の恩情により大幅にカットしてもらったものです。その時、父は他界していました。しかし、日本政府を相手に起こした貸付金返還請求の裁判は続いており、2年後の昭和57年に最高裁判所より却下の判決がでて敗訴したのです。控訴せずこれを受け入れることで家業の栄枯盛衰全て終了したのでした。
一家離散は免れたものの、戦後の歴史は人それぞれの生き方により勝つ者、負ける者に分かれる時代でもありました。正直者が馬鹿をみることが多々あり、また腐敗不正は生存をかけたもので、しばしば起こることになるのでした。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
昭和30年代、所得倍増計画が安保闘争を払拭し、「1億・総・・・」という“皆一緒”、“一方通行”の国民性が、高度成長と戦後脱却の象徴である「東京オリンピック」へと向かわせ、「挙国一致・頑張ろう体制」を作り上げていきました。
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高度成長が国内では格差、海外では貿易摩擦を招き、繊維産業を中心に軽工業分野は日本製品の排斥運動が巻き起こり、近隣三国(その当時、中国・韓国・台湾のことを指し、それらは発展途上国という位置づけで日本が戦前に植民地政策と軍の侵攻といった多大な迷惑をかけた歴史があり、経済支援により補わなければならないというものでした)からは、それぞれが工業化と経済成長で繊維産業は追われる立場となり、また先進国、特に米国からは貿易摩擦の標的にされ、昭和38年―40年にかけて繊維産業は壊滅的な打撃を受けることになるのでした。
このことが手始めで、その後鉄鋼、半導体、自動車と次々に日米関係は危険な状況にさらされることになるのでした。
また、金融面ではまず生じたのが円/ドルレートに対する競争で、またベトナム戦争の戦費支出もあり、ドル危機を招くこととなるのですが、日本は外貨不足と貿易赤字から一挙に大転換となり、国際金融市場では鎖国(1国主義)は許されなくなる、いわゆる国際化の波にさらされるのでした。そして、産業も金融も大転換を強いられることになるのです。これが昭和38年~40年の日本の国際舞台へのデビューになるのでした。
しかし、家業は産業の転換を読み切れず、旧来型のビジネスモデルで変化を迎えるわけですが、この主要国はオリンピック後の需要衰退からくる不況が原因ではなく、人為的な不祥事から起こったもので、今で言う「コンプライアンス」と「ガバナンス」の欠如による「黒字倒産」でありました。
すなわち経理の不正が企業の死命を決するという典型的な事例で、これが私のサラリーマン生活でのライフワークになるのでした。
それではどの様なことで企業の倒産に至ったかは次週以降にお話ししましょう。(来週に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
昭和35年、安保闘争に突入、日本は暗い夜と霧の時代に入りました。
世相は明と暗、表と裏の混在するなか、価値観が揺れ動き、そして泥沼の学生運動と極左勢力による暴力闘争に明け暮れていくのでした。
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反米闘争は、ベトナム反戦運動を発端に全世界を巻き込む反米運動に発展していくのでした。
しかし、市民生活はこれらの思想運動と裏腹に、大量消費時代の幕明けと技術革新による生活の向上に日々エンジョイし、国民の生活や経済活動はくっきりと二重構造を示し、豊かさの象徴である米国を目指し、戦争の過去と反省、戦前の歴史や国家感をすべて忘れさせた教育、これにより、日本民族の社会は急速に壊れていくのでした。
しかし、私はこの間の多感な少年後期の社会的環境の記憶は薄いのです。それは何故なのか、家業は順調で何一つ不足のものがなく、思い通りの生活をし、教育を受け、そして“賢い子”として勉強にスポーツに明け暮れ、大学時代は稀な部類に入る“やや左傾化しためずらしい青年”だったのです。順調に物事が運んでいる時、人間の記憶は機能が低下し、そして脳の皺に刻み込まれ、刷り込まれるメモリーが極端に少ないということかも知れません。苦労し、悩み、そして失敗し挫折した場合、鮮明に刻み込まれ成長の糧となるのだと思えるのです。
私の“ALWAYS三丁目の夕日”は満たされたなかで極めて印象は薄いのです。この様な大切な多感な成長期をただ一つ支えてくれたのが、学生運動、しかも母校の授業料値上げ反対闘争で、その時執行部の幹部
で居たということだけでした。
この時代は“学問と友人”、そして社会の“正義と奉仕”という一生の宝と目標を得たのでした。これが今の私が存在することの原点であります。
この時代が嵐の前の静けさであったことは、まだ気が付いておりませんでした。そして、私の大航海時代が始まり、次から次へと事件に遭遇するのでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
重化学工業の分析は勿論でしたが、世界戦略は国民に身近なところで起こっていました。
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昭和30年代世界戦略の1つ目はIBM、2つ目はコカ・コーラ、3つ目はパンナムだと思うのです。
当時、“外資”と言われるグループなのです。しかし、基盤にあるのは、“ガリオア・エロア基金”と言われる米国の対日、対欧への食糧支援は、戦争で敗れたり、あるいは被災した民の民意を掴むということに伏線があったのではないかと思うのです。
食生活の大転換、これは人心のコントロールには絶対欠かせないもので、これにより、多国籍企業の世界戦略は根強く、深く、しかも急速に実行されていくのでした。
IBMの戦略の一端を紹介しましょう。IBMはその後、日本を席巻し、その手法は日本の各大学の理工学部にIBMのコンピュータを寄付しました。この規模は相当なもので、各大学は学生に一斉に無償供与、このメカに馴れさせてしまうのです。そして、技術者、営業マン、経理マンといったそれぞれの分野へ送り出して、様々な分析をするエンジニアは、IBMのコンピュータでの教育を受け、そしてオペレーションに習熟した上で新しい人材が送り込まれていくのですから、“IBM導入”というブームが起こるのは当然です。当時はIBMの国際戦略とは思いもよらなかったのですが、すっかり術中にはまったと感じ入る次第でした。
コカ・コーラ(ペプシも然り)の戦略は、甘味と刺激を感ずる味と、そして色彩によりすっかり魅了させられてしまったのです。
これは水質の悪い発展途上諸国のみならず、中近東やヨーロッパまで席巻したことと、甘味により、人心が落ち着くことの効用があって、ますます広がったわけです。この味に馴れた国民は虜になり、各国に根を張り、多国籍企業となったのです。
パンナムは、昭和30年代においてアメリカの象徴としていつも例え話に出された航空会社です。パンアメリカン航空、このネーミングで南北アメリカ統合の象徴でありました。
日本では「兼高かおる世界の旅」という名前だったか定かではありませんが、世界中の国を兼高かほるさんが訪問するテレビ番組を食い入る様に見たものでした。“これが海外だ”と敗戦国のひがみか複雑な思いでした。
更に、パンナムは大相撲の優勝力士に外国人の東京支店長が“ヒョーショージョー”と巻き舌で、パンナムの飛行機と地球儀で形作られたトロフィーをよろけながらも呼び出しの手を借りて優勝力士に渡していたのを今でも忘れられないのです。
米国の日本占領政策が官民一体で行われ、当時のテレビのホームドラマと相まってアメリカンドリームが日本人を魅了し、米国には絶対に勝てないが、米国に追いつけ追い越せと国家意識が官民一体となり醸成されていったのでした。(来週に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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昭和31年、繊維産業は息を吹き返し、天然繊維から化学繊維の隆盛を迎えることになりました。
いわゆる、テトロンが革命的に登場することになり、東洋レーヨンが代表的な会社となり、“東レ”は今でもそうですが、“スター”でありました。
毛織物中心の企業も、テトロン、ナイロンを混ぜたいわゆる“混紡”により、国内のみならず輸出拡大により好景気を支えることになりました。
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家業は戦前から中国大陸を中心に、昭和30年代も朝鮮半島から香港、台湾、フィリピン、シンガポールと手広く商いを行っていました。昭和30年代も今では考えられない“進取の気性“で、貿易により業績を伸ばしていきました。エジプトの綿、フィリピンの麻を買い付け、日本で混紡にして輸出するという三角貿易(三国間取引というもの)もやっていたのです。
これは他の産業や企業も同様で、”もはや戦後ではない“と言われたものの、終戦から10年余のことなので、日本人は気骨のあるチャレンジ精神で、新しい価値観である資本主義と自由主義を取り入れ、”果敢な攻め“の姿勢で危機を乗り越え、戦後の復興から成長に転換していった時代でした。
昭和30年代前半は、ダイナミックな時代でもありました。しかし、背骨(バックボーン)は“武士道の精神”があったのだと思います。
当時、事業に成功した実業家の楽しみは、“桁はずれの宴会”と“タニマチ”だったのではないかと思います。“歌舞伎音曲と芸者”、“相撲の横綱・大関へのひいき”が流行していました。これを支えていたのが世界に冠たる繊維産業だったと思います。
日本は輸出輸出輸出と外貨獲得に明け暮れ、重化学工業化に政策も金融も人材も傾斜していた頃、米国の世界戦略が深く静かに浸透した時代でもありました。丁度昭和32~33年頃でしょうか、米国の多国籍企業が政官財一体で世界戦略を推し進めていました。(明日に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
従業員は住み込みの工員さんや営業マンであり、母が面倒をみて家族同様の生活をしていたので、解雇するようなことはなく、いわゆる潜在失業者として計上は表に出ず、丸抱えにより、経営者が一人被るというものでした。内輪の親子、兄弟は一斉に生活を切り詰め、雨露をしのぐといったもので、同級生や近所の方々から恩を頂くというものでした。
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事業資金も銀行が貸し付ける訳ではないので、親類や一族から借り入れることが通例で、これを“恩借”と称していたのです。
従って、なかなか倒産に至らないのですが、これをも上回る事態になると、万策が尽きて“不渡手形”を出し、マーケットから退場させられるのでした。
しかし、日本は敗戦後必死になって働き、国全体が高度成長を夢み、西洋に追い付け、追い越し、とりわけ米国を見ながら頑張り通したのです。
今思うと、政官財民一体となったいわゆる“成長戦略”の夢を描き実現していったのでした。
1年ほどで景気が戻り、事業業績は回復したのでした。それは、仕組みがあり、原料の取扱会社(見本を製造していましたが)と販売会社(企画と販売)とに分け、2つの会社にして経営を行い、そのうちの一つを倒産させたのでした。
従って、経営者も従業員も明と暗に分かれ、そのやり口が問題を呼び、一族郎党を巻き込んで内紛を起こし、暴力沙汰にまで発展していったのです。
しかし、粘り強く我慢強く再起を誓って、再スタートを切ったのでした。それも、再建会社の事務所は大阪で超有名なお寺さんの社務所でありました。(来週に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
朝鮮動乱後の不況でのオーナー企業の倒産は、ずさんな経営管理や計数管理からくるものが多い時代でした。いわゆる“戦後復興”と“戦争特需”から神風が吹いたにもかかわらず、営業第一に走り“内部管理”を看過し、“放漫経営”に陥ったことによる事業失敗が多かったと思っております。
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要は営業第一、計数第二ではなく第四からくる破綻と、相も変らぬ徒弟制度と同族による不透明な経営にあり、とりわけ“経理軽視”からくる採算の悪化と資金繰りの破綻、これを隠ぺいする粉飾決算であったと言っても過言ではありません。
同族会社は資本と経営の分離がなく、責任を誰も取らないのが通例で、私の父の繊維会社も例外ではなく、同族の役員と同族の下請けの対立で、急速な不況からくる資金繰りの悪化により、昭和30年あっという間に倒産してしまいました。(明日に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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当時の経済政策は、金融を含めて全て“外貨準備高”にとのように、影響を与えるか、そして円ドルレートは固定レート360円なので、いかに外貨を稼ぐかを目標として金融政策が運営され、その上での輸出振興、輸入規制の極めてわかり易い体制がつくられていました。
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労働マーケットは、地方から都市へ草木もなびき、若年労働者のみならず季節労働者も“出稼ぎ”という今で言う派遣なのでしょうか、一方的ですが極めて流動性(融通性)の高い労働マーケットが形成されていたと思います。
生活水準は大企業の終身雇用と季節労働者の併存により、バランスをとり、失業者は常に限界的な季節労働者が中心で失業者の顕在化を防いでいた感があります。即ち、企業内失業者と家庭内失業者により、統計上は失業率が余り表に出ないものだったと思います。このことを産業の二重構造と呼び、また、地方と都会との二重構造とも呼びました。これが高度経済成長に役立ち、また、高度経済成長が二重構造を吸収していたという成長戦略の好循環のサイクルになっていたと思います。日本は、あらゆる現象を“二重構造”で分析され、説明される時代でした。(来週に続く・・・)

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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
昭和30年不況は、日本の中小企業の構造の古い体質を一掃するに足りるもので、とりわけ古い体質のマイナス面のみを保っていた同族企業にとってみると、それはきつい激震が走ったものでした。
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しかし、朝鮮戦争特需により、日本の産業は基盤を造り、重化学工業中心の昭和30年代高度成長の魁として、飛躍への“礎”とも言えるものでした。この時代、“のれん”を守り、地道に営んできた“老舗”はより強固にまとまり、大企業は終戦直後に分裂し、細分化を余儀なくされましたが、大同団結、合併、統合を繰り返し、高度成長へ向けてのスタートを切る準備に入った時代でもありました。それが、昭和30年だったと思います。(明日へ続く・・・)

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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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私は友人の家に頻繁にお邪魔しました。家業の騒動が住み家にまで及び、当然、職住隣接ですから騒ぎで家に居る場所がなかったのです。
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友人のお母さんから「大変だね。食べていったら」と優しくされると居た堪れなくなるのですが、「ありがとうございます。いただきます」という以外ありませんでした。その友人の家は小学校の校門の前にあったのです。町中が倒産話し一色となり、私はとても居た堪れなくなったのです。そして、小学校にはこのこともあり負い目なのか、同窓会にもクラス会にも出たくなく、1年が過ぎ、再び家業が盛り返したのですが、昔仲間には会いたくないもう一つの理由であったのでした。
中小企業で、同族会社特有の悲劇が次から次へと起こっていったのです。この教訓で同族経営について東京青年会議所の若き経営者を対象として恥じながら講師を勤めました。ちょうど5年前のことでした。(来週に続く・・・)

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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、話を戻しましょう。
私は小学校5年生の時、新しい先生のもとで何とか苦境から脱出を果たしました。
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今思うと先生の存在は計り知れないものがあります。これは何も子供
だからということではありません。人生においての「吾が師」は全て先生なのです。特に影響が絶大、それは「小学校時代」であることは言うまでもありません。私の親友である総合商社の社長は、「教育が一番重要なのです。第二の人生は中学校の教師になることだ」と会うといつも話しています。
この様な経緯があり、私が社長を引き受けたフィナンシャルクラブを金融のみならず、幅広い「教育・訓練のアカデミー」として成長させたいと考えているのです。
余談になりますが、私事で恐縮ながらこの度次男が結婚することになりました。相手は小学校の先生です。私は大変嬉しく思い感謝しているのです。そして、私が小学校6年生の時、「よく卒業できたな」という職業軍人教師の言葉を背に卒業、やっと呪縛から解き放されました。
新しい空気と、もはや戦後ではないと言われた昭和30年代を迎えることになり、私も一転してスポーツに勉強に生徒会活動にと積極的な日々を歩むことになりました。スポーツはバレーボールを選び、その後の高校、大学、社会人として現役選手を続けました。今は健康を害してボールに触れることは叶わなくなりましたが、このスポーツにより、私はいかに多くの「力」を頂いたのか、大変感謝しております。当時の世相を反映して大変な名誉であった「健康優良生徒、市第一位」として中学校3年の時に表彰されました。表彰式には一宮市長、朝日新聞社、そして何ともドラマティックなことに、病弱でいつもお世話になった主治医の服部先生からも表彰して頂き、やっと苦々しい過去を振り返ることが出来るようになりました。
今思うと、「苦難を与えて頂いた方々」ということで、むしろ試練を頂いたという感謝の念に変わっています。しかし、何年かかったのでしょうか。50年はかかったと思います。
しかしながら、小学校には再び訪れることはありませんでした。これには別の理由があります。好事魔多し、中学校1年の時でした。ちょうど朝鮮戦争で米軍の特需があり、我が国経済はこれを契機に一気に復興することになるのですが、特に繊維産業は恩恵を受けたものです。父の会社も例外ではなく、急拡大したのです。そして、つわものどもが夢の跡、特需が終わり反転、過剰設備と在庫に苦しむ大不況となったのです。確か昭和30年、中学1年生の時、家業は倒産することになりました。ジェットコースターの如く頂点から奈落のどん底に落ちたのです。(明日に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
そして、これから生成し、大変な変質を起こすもの、それは
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・金融工学は金融以外のどこに行くのだろうか
・日本の政権選択で、負け組みは何を起こすのだろうか
・霞ヶ関解体により大量に輩出される有能な公務員(有能ではない方も)はどこへ流出するのだろうか
・覇権国の交代があるとすれば米国はどこへ行くのだろうか
・そして日本での団塊の世代、非正規雇用者、そして産業構造の変化により生ずる失業者を国家はどう処遇し、どう治めていくのか
上記はいずれも民であり頭脳である国の行方を決めるもう一方のキーワードでもあります。
これに環境破壊という変数が加わり、地球崩壊が現実のものとなるのです。
これ等の「解」は「人間」であり、「政治」であり、そして全ての礎は「教育」だと思うのです。
今回の総選挙は大事な選択を求められるとともに、その後の政治的混乱というカオスを通じて21世紀が見えてくるのではないでしょうか。
(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話の続きをしましょう。
ITバブルがはじけました。製造業段階で止まればよかったのですが、様々な工学はこれにより行き場がなくなり、とうとう金融工学という名でウォール街へ現れ、花を咲かせるのでした。
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2008年、金融工学は行きつくところまで行ってしまい、サブプライムローンに姿を変え、これを契機にとうとう金融バブル崩壊を招くことになるのです。
これにより、金融工学者は漂流し、いまだに辿り着く先が見当たりません。5年後あたりには、またまた革命的な山を創り出すのではないでしょうか。2009年日本では政権選択選挙と大声で合唱されています。
これに伴い、初めて逆サイドとなる勢力は又漂流するのでしょうか。マニフェストに掲げられるであろう公務員改革、これにより溢れる公務員、どこへ漂着するのか、大変な勢力が崩壊するとなると、これまた終戦の教育、冷戦後のIT、金融工学の破綻と“人材”の民族大移動は革命的な事件を引き起こし、とんでもない方向に行くか、あるいは地球規模で淘汰がはじまるのか、地球と人類にとり一大契機となるのはほぼ間違いないでしょう。
人類は崩壊と生成を繰り返します。それが歴史的大転換の時、思わぬ方向に進み、結末を迎えることがあります。
・敗戦による職業軍人の除隊は、教育や行政の現場に流入し、変質をもたらしたということ
・冷戦終結により、科学者(軍事)が大量に流出、軍需の民需転換により、IT革命が起こったということ
・ITバブル崩壊により、頭脳が金融工学へ転出し、金融バブルを起こしたこと
などが挙げられます。正にこれは輪廻転生といえるものでしょう。
(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
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こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
戦後日本に教育は、今でも取沙汰されていますが、昭和20年代、30年代あるいは50年代でも様々な影を引きずっている背景に、戦後直後の“教師”の存在が二重にも三重にも重なる矛盾が内包して影を落としているのではないのでしょうか。
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私はその様な小学校教育を受けてきたのです。もう2度とこの様な悲劇は願い下げにしたいものです。
この教訓は、実は終戦後の教育だけではありません。東西冷戦終結により、東西の軍縮による人的資源、技術の移転にも見られました。
東西、多くは東の軍や科学に起こった西へのリソースの移動です。これは軍需の民需転用といわれたITです。
1992年東西冷戦終結から、1997年IT革命までに起こった人的資源やテクノロジーの移転でした。
多くの科学者、特に軍事中でも核開発に携わった科学者が一斉に民需へ転換していったのです。
よくいわれるIT革命は、軍事をビジネスモデルに転換したものといわれるものです。
この資源の移転でまさにITはバブルとなり、そしてはじけたのです。これで多くの分野で工学が誕生したのです。最大のものが金融工学と言われています。これがウォール街を席巻する下地となるのです。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
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激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話の続きをしましょう。
私は学校での出来事を誰にも言わず、一人で耐えに耐えたのですが、一所懸命自習し、負けまいと頑張り、試験にだけは出たのです。
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ほとんど100点だったと思います。絵を描けば入選し、足が速いので徒競走は負けない、また、歴史小説や株式市況放送に興味を持ち、学校に行かず自宅でほとんど過ごす日々でした。
退役軍人教師からみたら、とても“嫌な奴”とうつったのでしょう。教師と生徒の関係はエスカレートしていったのです。結局、休みを入れて200日近く自宅に閉じこもったフランスのレジスタンスの様な生活をしたのでした。
この話しは決して忘れることなく、今でもまだまだ忌まわしい記憶が出て来てしまいます。語るのも嫌な思いで、小学校卒業後、一度たりとも小学校を訪れていないのです。
5年生にやっと復活したのです。今度は一転、年配の女性の先生が担当となり、お陰様で戦いは幕を下ろしたのでした。
しかし、退役軍人教師は、全校生徒の面前で若い女性の先生にビンタを浴びせるという事件が起こりました。
私はこれを書きながら、戦争とは何なのかのみならず、社会や経済が大変革したり、旧体制が新体制、すなわちアンシャン・レジームが起こる時、大変革が起こり、それはとんでもない時代を創り出すのではないかと思うのです。世界が大きく変わる時、とんでもないことが起こるのは、旧体制から新体制へ移動する“人”にあるのではと思うのです。
終戦後の職業軍人が過去の人生、仕事、生活、信条を捨てて、あるいは頬被りして占領軍による新しい教育が始まり、そして現場に入ることの恐ろしさです。それは私だけの経験ではないのです。同じ学校のみならず、他の学校や職場、あるいは社会で旧軍人の生き様がそれぞれに与えた光と影は、計り知れないのもがあるのではないでしょうか。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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終戦直後、町に溢れた軍人さんの中で、高級将校(職業軍人と言われていました)はバリバリであり、役場や学校にしかるべき待遇や地位で迎えられた方が多かったと記憶しています。私の学校にも元海軍大尉が来られたのです。
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小学校4年の出来事でした。当時、青空教育での教授が多く、運動会の練習が常時行われ、また、朝礼も毎日行われました。その時は隊を連ねて退場することが多く、まさに「教練」といわれるもので、“軍事”とつけば堂々たる軍隊の様な模様を呈していたのです。
私にはとても絶えられるものではなく、ますます“自閉症”となり、朝起きると体温が37℃と決まって発熱するのでした。下校時の夕方には計ったように36℃に下がることを繰り返すようになりました。今で言う登校拒否です。実は、この退役職業軍人教師が原因でした。今でもそう信じています。
その頃身体も弱く、また、栄養も充分行き届いていないことから何かというと病欠するのでした。どうしても先生に会いたくなかったのです。いくつかの理由はありますが、やはり、退役職業軍人教師からみて私の一家の派手さは許せなかったのだと今でも思っています。どの様なことがあったか、この際書き残してみたいと思います。
宿題を忘れる訳ではありませんが、病欠の翌日登校すると、皆が一斉に宿題を提出するのです。私は準備をしていないので、手を挙げて立ち上がり「忘れました」と言うしか方法がありませんでした。
私が受けた罰は、甲板掃除といって50メートル位ある廊下を1人で15往復でしょうか、雑巾で拭くのです。塵も積もれば山となることをお知えてやる!と竹刀を両手で持ち上げて立たされるのです。「腕が痛いか、竹刀に塵が積もるからだ。お前の様な者にビンタはもったいない」と頭の後に手を置いて教室の柱におでこをぶつけるということもありました。そして、とうとう登校出来ず、200日は病欠したと思います。このことは当時、決して家族に言わなかったのです。(来週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
敗戦で大量の軍人さんが除隊となり、町に溢れることになりました。
傷を負った軍人さんが街角でハーモニカやアコーディオンを弾き、傷ついた両腕両脚
は見るにも無惨な光景でした。浮浪者や孤児が道端に座り込み、街路や街並みは
壊滅状態であり、本当にすさんだ時代でした。
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私の街は日本で最も封建的なところで、26代の継体天皇が一時お隠れあそばされた真清田神社が町の中にある門前町でもありました。
母方の先祖が、1600年関が原の戦いで豊臣方に組したことで熱田神宮に身を預けられました。そののち真清田神社の神官となり、400年続き明治を迎えた由緒ある家柄でもありました。その様な環境下、一家が目を覆うばかりの超近代的、超モダンと言うのでしょうか、そのことから町では後指びをさされるに芳しい存在でした。
私の小学校時代での授業参観や父兄会(当時は父兄会といった)は、両親が家業で忙しくしているため、姉が代理で小学校に来ることが間々ありました。年は20歳近く離れているので当然だったのでしょう。
しかし、これが当時では全く裏目に出たのでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
1949年4月、小学校へ入学しました。祖母が住んでいる住所に寄留し、小学校はいわゆる越境入学となっていました。それもあり、近所の友達もなく、学校に行くにも姉達(姉が6人いました)と一緒に通学することとなりました。
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小学校には年齢の上のクラスメートとか、本当にいろんな生徒がいました。戦後の混乱期で教室もなく、何もない頃でした。
父が事業に成功したこともあり、周りの人々からは羨望のまなざしでもって見られる時代が来ました。
小学校3年の頃でした。子供心にとても嫌なことがあり、小学校へ通うのが嫌で嫌でしょうがありませんでした。ブログに書くか迷いましたが、終戦直後なのにあの様な地方都市で、この様な想像もつかないことがあったことに触れなければなりません。
私事なので許して頂きたいと思いますが、まさに新しい時代の魁だった出来事です。
私の長女はバレリーナです。あの時代に石井漠門下生で、沖縄のひめゆりの塔の前で創作バレーを門下生一同で踊ったのです。終戦直後で信じられない出来事でした。田舎でも新聞報道により、大変な話題となったのです。
次女がファッションモデルでした。これも私には信じられない出来事でした。母に連れられNHKの名古屋支局に行き、確かテレビ放送のテストパターンに映し出される姉を見て、誇らしげにも思いましたが、恥ずかしいこと恥ずかしいこと、なんとも言いようがありませんでした。
三女はミスコンテストに出て、ミス日本となった近藤美恵子さんと愛知県で競って、準ミス愛知となりました。何とも恥ずかしい限りでした。
そして、兄は大学4年の時、ガス自殺を図ってしまったのです。幸いにも一命はとり止めましたが、一部新聞にでました。早朝に新聞の記事を持って両親がおろおろしていました。私は小学校3年だったと思います。自殺や心中が流行した頃でもあり、戦後の世相の変化に順応出来ない若者があふれていた頃でもありました。愛知県でも最も封建的な地方都市の一宮では、格好の話題を提供したので、私は小学校時代にますます自閉的な暮らしに入っていくのでした。
しかし、今考えると、戦前の中国大陸(上海、青島、大連)で手広く繊維会社を経営していた父の影響で、子供達が自由に生きていたのでしょう。そして、敗戦がもたらした「やむを得ないこと」ではありますが、最大の問題と思われることが教育現場で起こりました。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 26 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。 私は幼い頃に受けた屈辱があって、外で遊ぶのが嫌なので内にこもっていましたが、町内会というか、向こう三軒両隣というか、日の丸を新聞紙やザラ紙で作り、小枝にはさんで日章旗をつくりました。これを掲げて国鉄の線路や駅のフォームへ行き、2列縦隊で並ぶのです。
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全員が、「きおつけ」の先生や町内会長の声で、ゆっくりと走り来る列車を眺めて、そして列車に向かって「バンザーイ、バンザーイ」と叫び、通り過ぎるまで旗を振り続けるのです。陛下のお出ましは勿体なくも尊いお姿を拝し…という次第でありました。
私達の町では、陛下の行幸が年に何回も機会がある訳ではありませんが、みんな涙を流す人も居りました。私は外に出るのが嫌々ながらも何度か参列しました。人々の顔は緊張のせいか白っぽく青ざめている様な感じで、
「やっぱり戦争に負けたのだ」と余りにも進駐軍のジープと真逆なのには「日本が変わった」と思い知らされるには十分すぎる出来事でした。
今思うと、敗戦から立ち直るのかと絶望の淵に立たされるのでした。
(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 25 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
私は子供達が喜んでチューインガムやチョコレートをむさぼった光景を忘れません。
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何故、甘味なのだろう、ということが会社生活での1968年と1993年、そして1947年の終戦直後を結び付けて「あ!そうか」とわかったのです。
それは、甘味は脳の活性化と糖分吸収により、人心を安定させるのです。このために自給率を上げるほか、砂糖のリソース確保には政治的のみならず、国事的な意味があることを知ったのです。日本では農政ですが、米国では国防として仕分けされていることを知り、世界情勢下の「日本」を思い知らされたのです。
したがって、米国の戦略上、中南米は、パン アメリカンという位置づけがあるということを悟ったのでした。米国が何故、沖縄返還を渋ったのかは軍事上のほか、食料戦略上の意味があったのではないかと思えるのです。
甘味資源は、国家戦略と結びついていたのだろうと推測できるのです。米国進駐軍が日本国民の人心を掌握する方法として、食料援助とともに、チョコレートやチューインガムが子供に対しては格好の方策だったのでしょうか。
経済復興とともに、政治と利権が結びつき、昭和30年前半の「三白景気」といわれたものがあります。それは、セメントや肥料そして砂糖で、いずれも白い色なので、経済振興には欠かせない3つだったのでしょう。
カリブ海に浮かぶキューバは、甘味資源国で軍事戦略という見方をすると、歴史は更に複雑で興味深いものになるのです。その最大のものが、キューバ危機です(米ソ冷戦)だと思います。
チューインガムとチョコレート、これが今でも強烈な劣等感として残り、「あっ、アメリカには勝てないなぁ」といつも感じているのですが、それだけに猜疑心と警戒心で金融には臨んでいます。
これが幸か不幸かわかりませんが、「リスクマネジメント」と「日本の技術と文化」にこだわるのは、こんな背景があるのでしょうか。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 19 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
1945年8月15日、天皇陛下の終戦勅語はラジオで聞きました。誰と聞いたのか憶えていません。家族は泣くことはなく、安堵のため息をもらしていました。子供心に「これからどうなるのだろう」という不安と、食べ物もなくひもじい思いをしていました。
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小学校に上る前の頃です。名岐国道が近くに通っているので、頻繁に米国の軍用車やトラックが走っていました。ある日、脇道に進駐軍のジープが入ってきました。物珍しく、子供たちが飛び出して遠巻きに見ていると、
ジープの兵隊さんがチューインガムやチョコレート、キャンディーをばら撒いたのです。皆、我を忘れて駆け寄り拾い上げ、恐る恐る手にしていたところ、兵隊さんが「食べろ」という仕草をしたので一斉に紙を破り食べてみました。本当においしかったのです。これは何だろうとわかりませんでしたが、ともかく、皆ニコニコ、甘いもの食べながら幸せを感じたことに秘密があるのでした。
これも私が社会人になり、入社直後に食料の経理に携わった頃、
砂糖会計を担当したことがありました。
この時に「甘味資源育成法」という法律があり、政府は農政の一環として輸入粗糖には高率関税を賦課し、国内の甘ショ澱粉やバレイショ澱粉、砂糖きび(沖縄は外国でありました)に高額な補助金を出し、保護していました。その当時、国内の需要の15%は最低確保するというものでした。
この背景がわからなかったのですが、その後1993年、防衛産業の経理を担当する時に謎が解けたのです。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 18 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
パチンコの発祥地は一宮市だと思います。確か“赤玉”ホールと言ったと思いますが、定かではありません。繊維の手織機の台が原型で、これが桐生、足利の繊維機械製造メーカーに伝わったのではないかと想像しています。何か納得する話しではあります。
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パチンコ産業には奥深い世情が絡んでいます。パチンコ店にはその当時、お客さんは自転車やスクーターで遊びに行きましたが、店の前には自転車が放置されたようにずらりと並び、道を占拠することも間々ありました。歩くのに邪魔を感じることがしばしばです。しかし、時々店の前の自転車が撤去されることがありました。その当時は気にも留めませんでしたが、その後、1993年以降でパチンコのプリペイドカードに携わるようになってから、パチンコ店が風俗営業の許可で営まれており、警察が管轄していることを知り、「パチンコ店の指導に道路交通法が適用」されていることで合点がいったのでした。
終戦直後の物騒な時代の治安を司る警察は、人心の安定や娯楽の提供、雇用の創出のため、パチンコ産業の育成をしていたのだろうと推測するのでした。
治安維持には警察権力だけでは人手が足りない時代を背景に、街角は明るいし、バクチと言ってもいいようなパチンコのシステムが、社会現象となり庶民の娯楽として受け入れられたのでしょうか。
海外から見ると、「日本かとんでもない国だ。街角にカジノがある。バクチ天国だ」と写るのでしょうが、終戦直後の治安維持には不可欠なシステムだったようです。今も、矛盾をはらんだまま20兆産業として隆盛が続いているのです。パチンコ産業の誕生には、産業の転換や雇用の創出、治安維持という側面を見なければなりません。(来週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 12 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。終戦直後、繊維産業の復活は目覚しいものがありました。私が生まれた愛知県一宮市は、江戸時代末期より繊維産業の中心地で尾西―岐阜一帯は資本の原始的蓄積としてよく引用されます。繊維の町一宮は、地方からの集団就職の発祥の地とも言っても過言ではありません。
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人口構成は若い人と女性が多く、機屋に織工さんとして住込み就職し、織女(姫)としての古来から、その後に七夕祭が盛んになりました。人口の男女比率は、男性48%、女性52%位だったと思います。
私は父が毛織物の会社を経営していて、反物の見本を造る小さな工場を持っていました。その工場は家から10秒の場所にあったので、織機の並んだ狭い場所が格好の遊び場でした。
確か画期的な機械の導入が可能になった頃でした。手動式から自動式が取って替わりました。この自動織機が豊田織機製であったと記憶しています。手動式は放置されましたが、私たち子供はこの機械の釘が複数あり、その際を紡鐘機が飛び交うのを面白いと眺めていました。捨てられた板を立て掛けて石ころのようなものを上から落とし、釘に当りながら落ちていくのを面白がって遊んでいた記憶があります。
これが実はパチンコの始まりだったのではないかと思うのです。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 11 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
京都での拘置所の鉄格子は強烈なものでした。動転したのか、どの様にして帰って来たのか記憶にありません。
故郷に帰って暫くして父が帰って来ました。「身に覚えがない!」と言っていました。密告により、無実の罪で投獄されたのでした。
その間の事情がわからず、外にも出られぬまま、またもや追い討ちをかける出来事が起こりました。
ある日、初夏の頃だったと思います。数人の大人が突然家に入り、「触らないで!」と赤い紙を貼り去って行きました。またもや何がなにやらわからぬまま、家具やたんすを使うことが出来ませんでした。
「脱税の容疑」で「差し押さえ」というものでした。暮らしには不自由をしたはずでしたが、相次ぐ“何がなにやらわからない”で怖い思いをしたものでした。
どのような経過であったか憶えていません。相次ぐ大人の世界の裏を見てしまった様で、薄暗い日々を送ったものでした。
一連の流れを今にして思いますと、戦後の混乱期に巨額な国への貸付金の返還請求を一宮市長を通じて行ったこと、誰よりも早く繊維で儲けて立ち直ったこと、派手で目立つ女系家族が貧しいながらも颯爽と暮らしていたことなど、やっかみと風評により密告され逮捕に至り、投獄され、無罪放免の後、税務署による脱税容疑で差し押さえ、といった一連の流れを60年経た今でも新鮮に思われることで、この国は変わっていないなぁと考えさせられてしまうのです。
これは、終戦直後の特殊な経済・金融事件とは片付けられないところにこの国の閉塞感があると思われるのです。(来週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
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2009 07 05 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
昭和21~22年だったと思います。父は懸命に働いていたので、ほとんど顔を見たことがありませんでした。
何もない終戦直後のことなので、売り食いというか物々交換というか食べ物を確保するのは大変だったと思いますが、繊維産業の復活で“ガチャ萬”と言われた時代でした。反物をガチャと織ると萬円と儲かるという比喩で、闇市や裏街道により生きる時代でした。
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その頃、母は着物や什器などで米、野菜を手に入れており、台所の入り口でいつも大八車を引いて来て頂いた夫婦と大変懇意にしており、私も時々様子を裏口で伺っていたことを記憶しています。(そのご夫婦は後に事業で大変な成功を収められた方です。)
父が仕事を昼夜に亘り行い、地方へ出掛けることが多い時代だったことと、兄や姉(上の2人ですが)とは年齢が15~20歳近く離れていたことと、東京に下宿していたこともあり、母親と身を寄せていた伯母とかお手伝いの老女とか、いわゆる母系家族の大世帯での住み家でした。
そこに突如として舞い込んだ事件でした。母が「これから京都へ行くので一緒に来なさい」と手荷物、確か下着だったと思う、を持って、国鉄の普通列車に乗り込みました。やっと入った三等車は超満員でしたが、母は引きつった顔をして手をしっかりと握っていたので、不安はあるものの、だまって何時間も我慢して京都に着きました。
歩いたのかバスに乗ったのか憶えていませんが、着いた所で暫く待つと通された部屋は驚愕の場所でした。薄暗い部屋には鉄格子があり、その向こうに髭ぼうぼうの父が居り、「自分は何もしていない、安心しなさい」
と言っていました。何がなんだか判らぬまま、これは大変なことになったと思いましたが、面会の後どの様に帰り、どの様に家に着いたか憶えていません。鉄格子は何だろうとずーっと幼心に考え悩んでいたのだと思います。 しかし、思い出せないのです。
茫然とした日々を過ごしていました。その頃、近所の子供達と遊ぶことがなく、また、幼稚園や保育園へ行くこともなく、だだっ広い家と豪華すぎる庭で遊び、蔵で隠れ一人でいろいろシナリオを書いて、想像の世界で過ごすことが一番楽しい時代でした。人と会いたくなかったのでしょうか。
しかし、程なく父は帰って来ました。
「繊維事業が上手くいったことを妬み、物価統制令違反という根も葉もないことで密告され、拘置されたのだから安心するように」と親からは聞かされたと思います。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 07 04 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
亡き父が、国を相手に昭和20年9月の貸し金を返還してもらう訴訟を起こし、昭和57年最高裁で敗訴となりました。私は相続人として訴訟の行く末を考えた結果、判決を受け入れ敗訴しました。
この事例は、Financial Japan(2006年10月号)に掲載されています。
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あらましは、昭和20年9月当時の外務大臣吉田茂氏(現麻生総理の祖父にあたる)の訓電に基づき中国の在外公館が、中日在留邦人の救済のために企業に資金提出を呼びかけたことに始まります。亡父は工場等財産を中国人に売却し当時のお金で約1,200万円の預金がありましたが、全額を青島総領事に提供、借用書を貰って1947年に帰国しました。

故郷の市を通じ国に返還請求をしましたが「債務不存在」として最高裁判決により却下されたのであります。
判決は、
●在外公館等の債務は1952年の法律により50,000円で打ち切る。
●吉田茂外務大臣には借用権限が無く、閣議決定されていない。
つまり、国は借りていないのであるというものでした。
昭和20年から昭和57年、私が3歳から40歳まで、私は父の姿を通し、この理不尽な出来事や、日本経済の浮沈で起こった家業の倒産を3回経験し、国家と危機の何たるかを学びました。
戦後のドラマはこの様なものには比べ物にはならない無限の苦しみを日本国民は甘受してきた末に遂得た繁栄であることを忘れてはならないと思います。
私の中ではこの出来事を通じ、現在・過去・将来に亘り深く教訓として残っています。
即ち、
●法律をつくる政治家がいかに重要なものか。(良い政治家を選ぶ)
●国の破綻は、国民の犠牲の上でのみ防げる。(国は国民を犠牲にする。)
●国民は、国民である前に、自主独立でなければならない。(自己責任なのだ。)というのが原点になっていると考えます。

後日談になりますが、1982年最高裁判決を受け入れた後、弁護をお世話して頂いた「法律扶助協会」から手紙が来ました。
「時間がかかってもいくらでも良いから、弁護士費用全額を支払って下さい。」というものでした。
私は国に貸した金を返せと言っている以上、全額支払うこととし、苦しい家計から女房に隠して44回3年半かけて完済しました。
「私は国とは違うんです」との思いで懸命に返しました。支払いが終わった1993年6月は、奇しくも父の13回忌の1ヶ月前でした。思い起こせば中国からの引揚者の方々へ支援金として在外公館が吉田外務大臣の訓電に基づき集めた資金は1億数千万とも言われています。
この資金によりお帰りになった邦人の方々は30万人にも上るというデータもあります。国のためにお役に立てればという思いで資金を提供した方々の尊い志を無視して1952年には法律が可決され、これより在外公館が集めた1億数千万円の内、先ほど申し上げたとおり亡き父の場合1,200万円が一人50,000円で切り捨てられる残念な結果になってしまったのです。
当時の総理大臣は訓電の発信者である吉田茂元外務大臣でありました。その後、最高裁まで争った亡父は判決を聞くこともなく、国から感謝されることもなく無念の思いでこの世を去ったのです。
このようなことが二度と起こらぬよう、我々国民は政治を充分に監視する義務があるように思います。法治国家としての我国を守っていかねばならないのです。それが国民の責務であると思います。最近、法治国家にあるまじき、事例を散見されるのは残念なことであります。とはいえども、この国は優秀な人材が豊富で同じ事を繰り返さない策を十分に練れるとも期待しています。
このことは、国家・国民の究極のリスクマネジメントだと思うのです。
フィナンシャルクラブの運営の責任者として、この一連の出来事の教訓を胸に、国の在り方、個人の在り方、そして金融の在り方の普及に尽くしたい、強くそう思います。
父は引き揚げ後早速、貸金返還請求手続きを市を経由して行いました。戦後の経済・金融はこの様な環境の下で出発することになりました。 その後、とんでもない事件が起こりました。私が5歳の頃でした。
(来週に続く・・・)
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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
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2009 06 28 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
私は昭和17年9月3日生まれで戦前生まれの戦後育ちです。昭和20年の春、3歳に届かない頃、疎開を致しました。
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岐阜県の美濃町という所で近くに各務原飛行場がある所です。ほとんど記憶が残らない年頃なのに空襲の閃光は今でも脳裏に焼き付かれています。それに加え、何故か大地震が多く、三河、尾張、福井の大地震といったものが多発した頃で、不幸は重なるもので、天変地異が加わった恐ろしい時代でした。上からの焼夷弾、下からの地震と生きた心地がありませんでした。
当時住んでいたのは、愛知県一宮市で繊維の町、中京工業地帯の中心で、米軍も名古屋を中心にして徹底した爆撃を行ったものでした。
家族は10人で、8人兄弟の末子ということで、1人で美濃町の知人の家に預けられたという次第です。疎開先の美濃町では、各務原飛行場が近いということで、空爆は大変激しいものでしたが、何故か空襲になると閃光が嫌で、慌てて便所に逃げることにしていました。
何故便所なのか判りませんが、雪隠(せっちん)詰めという言葉の意味は判らなくはありませんでした。なんとなく落ち着くのです。この間の経験が、その後の人生において外国に対する違和感の原点だと思っています。なかなか好きにはなれず、劣等感や警戒心ばかりが募るものでした。それが結構長く続いたと記憶しています。
そして、8月15日終戦の日を迎えました。私は自宅の廊下のラジオで聞きました。父が一緒だったと思います。敗戦が濃厚になり、中国での会社を中国の方に売却し清算した上で、命からがら帰国した模様です。
父の中国での仕事振り、生活振りはその後の貸金返還請求裁判で明らかになるのですが、大陸の方々とは親交が厚く、証言に立って頂いた中国人の方々が多数に上りました。
(明日に続く・・・)
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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
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2009 06 27 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
私はこの仕事を引き受けて間もなくの11月に後楽園ドームのイベント会場でブースを出して良いということになりました。
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始めての経験ながらブースの前に立ちクラブについて街頭演説の如く勧誘を始めました。4~5人の方々を前にしてだったのですが、折しもサブプライムローン発生後でもあり、閑散としたなかでのことでした。これでは駄目だと感じ、翌日はサブプライムローンを「大航海時代が再びやってきた。500年を経てです」と熱弁を振るいました。お客様は前日よりも少なく1名でした。
政治家の街頭演説を支える熱意は自分の言葉で語りかけることだと痛感し、フィナンシャルクラブの仕事は「思想の普及だな」と感じました。20分も話したでしょうか。
内容は「サブプライムローンの正体を推論する」というテーマで昨今話しているものと同じです。
今日も駄目かとがっかりして帰路に着くと「ゴールド会員になって頂いた方がおられました」と電話が入りました。“あ!これだな”と感じ取り、この時の熱意と感激、感謝を胸に秘めた今、フィナンシャルクラブや、10年前に私が会員になった新現役ネットで皆さんに語りかけ、また、こうしてブログに書いています。
近頃では、話しが上手くなった訳ではありませんが、講座を頂き、
フィナンシャルクラブサロンや新現役ネットで3月5日、5月15日、5月19日に「サブプライムローン」、5月26日に「日本のグリーンニューディール政策」、6月16日、7月7日に「日本のバブル崩壊」と合計6 回皆さんに集まって頂きました。そのうちの5回で延べ人数で300名の方々、そのうち非会員は150名に上り、数多くの方々にお越しになっていただいています。
長い間、病気編を書いて来ましたが、これから経済、金融の裏表を書き留めていこうと思います。
私は皆さんにサロンに来ていただいて、サロンでしか聞けない話しを自らもさせていただいております。評価をいただき、お役に立てれば喜びが倍になります。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。(来週から『経済・金融編』がスタートします)
≪講演名≫
1.サブプライムローンの正体を推論する
サロン開催 5月15日、19日
新現役ネット 3月5日
2.土壌汚染 -オバマのグリーンニューディールを超えられるか-
新現役ネット 5月26日
3. バブル崩壊 -日本のバブル崩壊とアメリカの金融危機-
サロン開催 6月16日
新現役ネット 7月7日
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 21 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
長い間読んでいただきありがとうございました。
結局、私の病気、子供の病気、そして会社の難局により、私の海外勤務は許されませんでした。海外勤務なしで役員になったのは歴代の役員で2名のみでした。これが良いか悪いかではありませんが、志半ばで「打ち方止め」と無念の退場を味わったのでした。
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振り返ってみて「良し悪し」ではなく、人間の「器量」というものなのでしょう。
幸いなことに、上司・部下・友人そして家族に大変恵まれ、私が一貫して東京本店勤務ということも幸いにして知己に恵まれたということになりました。しかし、勤務は叶わなかったのですが、海外出張はずいぶん多かったのです。
韓国 ソウル・釜山・浦項・光陽・済州島
台湾 台北
中国 北京・上海・ハルピン・珠海・瀋陽・広東・香港
カナダ バンクーバー・トロント
アメリカ ニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・サンフランシスコ
スイス チューリッヒ
イギリス ロンドン
ロシア モスクワ
トルコ イスタンブール
ウクライナ キエフ
カザフスタン アルマトイ
ウズベキスタン タンケント
イラン テヘラン
エジプト カイロ
メキシコ メキシコシティ
フィリピン マニラ
インドネシア ジャカルタ・スラバヤ
ブルネイ ブルネイ
タイ バンコク
シンガポール シンガポール
ケニア ナイロビ
タンザニア ダルエスサラーム
エチオピア アディスアベバ
計23カ国 38都市
そして国内は全国都道府県と県庁所在地すべて仕事として
廻りました。
しかしながら、病気で臥せたサラリーマン人生でもありました。入院と自宅療養で延べ8年ということになります。
その都度、“もう駄目だ”“これで終わりだ”とくじけながらも回復してきました。お医者さんは「あなたは強靭な精神力と抜群の体力で意識しないうちに無理を重ねることが多い。内臓は鍛えられないので行くところまで行くと倒れるのではないか」と言われたことがあります。私もその様に思わなくはありません。無理を重ねるのは生まれてから“何とかしなければ・・・”というどこかの知事さんの言葉ではありませんが、人生観として貫く何かがあるのです。
6年前、失明寸前まで行き、全ての光を失ったかの如く、退院後
家族に無理を言って墓探しをし、田舎のお寺からお叱りを受けたことがありました。今では夢のまた夢の如くであります。
今日現在、何とか社会復帰が出来たのも、皆様のお陰と感謝しております。何とか社会に尽くさなければという想いでフィナンシャルクラブの社長を務めさせて頂いております。これからどの様な人生が待ち受けているかも分かりませんが、感謝するのみです。(最終稿-幕間- に続く)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 20 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
確かに、2008年5月に本格的には6年振りでしょうか、レイクウッドでゴルフをしました。大学のクラス会でKKK会といいます。
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「気の毒だからハンデ30やるよ」との連絡が幹事からありました。さわやかな緑のなか、ティーグランドに立ちました。この日のために、親友の子息が経営している代官山のゴルフスタジオに2回練習に行きました。目もよく見えず、腰も不安のなかスタートしました。
結果はなんと、IN58、OUT49、計107、ハンデ30、ネット77のスコアで優勝してしまったのです。私は幸いにも自信を取り戻した2008年6月、43年勤めた会社を無事卒業することになりました。そして、木村さんの強い要請でフィナンシャルクラブ㈱の社長を引き受けることにしたのです。私は最後のご奉公として、フィナンシャルクラブでの金融のリスクマネジメンを世の中の皆さんに伝えるために引き受けることにしたのです。
2009年6月、新たな企画の下、更なる発展を祈って、オープン講座で自らがその経験と知見を語り、フィナンシャルクラブに来なくては聞けない話しをし、皆さんの頭の片隅に留めて頂こうとの願いを込めて、病気編の中締めとすることとしました。まだまだこれから私の人生は何が起こるのかわかりません。残り少ない時間なのですぐに続編をということにさせて頂きます。
それではフィナンシャルクラブ九段下サロンで何回もお会いしましょう。その日までさようなら。 以上
次週の“あとがき”のあと、「金融編」を始めたいと思います。
(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 14 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
主治医が「手術台空き次第オペを行います。体調整えるように。また、明日状況を詳しく説明します。ご家族を呼んで下さい」
とのことでした。執刀は千葉助教授でした。「貴方の場合、ご覧の通り、背骨の椎間板と神経が癒着してしまっている。これをはがして椎間板を削り、チタンを入れて再生するという極めて難しい手術です。このまま何もしないで、だましだまし人生を送るか、危険だが思い切って手術するか。相談して下さい」とのことでした。
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私は「よろしくお願いします。出来るだけ早くお願いします」
と回答したところ、先生は「そんなに簡単に結論を出さないで下さい。開腹手術となりますので一晩よく寝て考えて下さい」とたしなめられましたが」、私は「一刻も早く」と既に覚悟の人生なので、何の未練も躊躇も心配もありませんでした。
いよいよ手術です。この5年で目が4回、首が1回、腰が1回の計6回も敢行したことになります。
手術は成功しました。見事な手術でした。出血はわずか5cc、
時間は1時間、まさに「神の手」だったのです。またもや「名医に助けて頂いた。思い残すことはない」と我が運の強さをつくづく知らされたものでした。
手術後、女子医大の時もそうでしたが、木村氏が見舞いに現れました。彼には入院する都度心配をかけて来ましたが、本当に有難いことで、その都度生きるという元気を頂いていると感謝しています。
ただ、見舞いの都度打ち合わせがあり、この時は経営を手助けしてくれないかというもので、「わかった」と即答しました。長い付き合いで23年になるのです。私は翌年2月、慶応病院長の戸山教授から「そろそろゴルフでもやっても良いですよ」と回復が順調であることを告げられました。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 13 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
皆さん、こんにちは。木村剛です。「ある女子大教授のつぶやき」さんが、「過剰な規制」というタイトルで、「貸金業法の改悪、医薬品のネット販売規制、クレジットカードの規制など相も変わらず官僚規制が蔓延してきている」と指摘しています。
いずれも消費者保護を大義名分にしているが、仮面を剥ぐと既得権益を保護する動き以外の何物でもない。人間の活動のもとは、多少のリスクを負担してある程度の冒険をすることから生まれてくる。・・・リスクの負担は、ピンからキリまでであり、値動きの激しい株式に投資する人もいれば、あまり得動きのしない株式を好む人もいる。それにこそ自由主義経済の本質がある。多重債務者を救済するということで貸金業法が改訂された。消費者金融などを利用している人は2000万人というが、2006年12月の法律改定により、貸金業者は年収の3分の1以上は貸してはならないこととなった。この総量規制は2010年6月までに段階的に施行される。こうなると、利用者の3割か4割ぐらいの人は、金を借りたくても借りられなくなる。必要に迫られて闇金融にいき、借りたあとでは暴力的な取り立てに泣くことになる恐れが高い。金融庁は多重債務者や消費者保護を名分としているが、これでは貧乏な経営者は借金するなということと同じである。長期の経済停滞を招く恐れのある過剰な規制であるが、最後の付けはGDP伸びの停滞という形で国民全体に回ってくる。
貸金業法改正による悪影響については、多くの人が気付き始めていますが、過払い訴訟で億円プレーヤーになった「過払い長者」の弁護士たちの声が大きいために搔き消されてしまっています。金融庁に勤務していたときに「過払い長者」たちに有利になるような政策立案や情報漏洩を行って問題になった方が、いまでは立派な代議士になって「消費者庁」を推進しているのですから、自民党政権は滅茶苦茶ですね。
判断能力のない永田町と既得権益擁護の霞が関がタッグを組んでいるままでは、日本の将来は暗いままです。「兄やん公式ブログ2」さんが指摘しているように、「本質的には霞が関が変わらない限りは、このままこの国は長期衰退が必至だと思われます」ということなのかもしれませんね。
規制強化に関して、「Just Another Day in the Life of KC」さんは、徴兵制の議論になぞらえて、官僚依存の傾向に対する警告を発しています。ここで触れられているケネディ米大統領の名台詞を公式の場で言える政治家が日本にでてくるためには、あと何年必要なのでしょうか。
権利ばかりで義務は果たさなくても何とかなり、しかも自国防衛までアウトソーシングとなると、ほとんど何もする事がない。せめて自分達でできる事ぐらい役人にアウトソースするのは、やめてはどうだろうか? 私は消費者庁なんて要らないと思う。「消費者庁設立にご賛同頂ければ、国民の皆様の大切なお子様たちが蒟蒻ゼリーに喉を詰まらせないよう規制強化してまいります」って馬鹿も休み休み言え。もっとも野田聖子大臣や後藤田議員のような世襲お嬢ちゃまお坊ちゃま議員はこういう過保護に違和感を感じないのだろうが・・・ケネディー大統領は就任演説で次のように述べた。"Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country."「あなたの国があなたの為に何ができるのかを問うのではなく、あなたがあなたの国の為に何ができるかを問うて下さい」
2009 06 11 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
確かに私には“生かされている”と感じることが多いのです。
“たら”“れば”を含めて、人生の器量というものがあり、それぞれの人生があるということなのだろうと思います。
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女子医大を退院して、体調を整えなければと思い、第一線を退き、いろいろな会社からの申し出があり、名前は連ねるものの気楽な立場で経営に携わることが多くなりました。顧問の任期が2008年6月末で終了するので、病気療養にウェイトをかけながらも世間で言う第一線には片足を掛けさせていただいていました。大変有難いことであります。
病状は回復とまではいかなくとも順調に推移し、社会復帰が見えてきた矢先の2007年3月、突如として20年前の椎間板ヘルニアに再度見舞われました。「いよいよ最終の闘いか!」と急遽、親友を介して慶応病院長の相川先生のもとへ「お願いします」と即日入院の覚悟で訪ね、そこで紹介していただいた外来の戸山教授(現病院長)に、「これは大変だ。ドロップフットになっている。危険な状態、すぐ段取りをとらなければなりません」と診断され、即日入院となりました。
ドロップフットとは足首が動かなくなり、血液を逆流させ心臓に戻す機能が不全になるとのことです。これは血流が止まることになり、危険なのです。足首がポンプの役割を果たしているのだとは思いもよりませんでした。準備運動に足首を動かす理由があったのです。これは重要なことなのです。
1週間かけて全ての検査を終了しました。これとて、病室待ち、検査待ちが許されない緊迫したものでした。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 07 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
私は親友を通じ、女子医大の内分泌科小原教授を頼り、その結果
即入院となりました。患部の組織細胞を検査したところ、「甲状腺癌」と診断され、間髪入れず手術となりました。
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結果は素晴らしいものでした。回復も早く、また、声帯も傷つくことなく美声も維持出来ました。しかし、「赤血球が少ない。脊髄から液をとり検査しないといけません。このままでは退院は難しい」と主治医から新たな病気を告げられました。「不応性貧血」ということでしたが、これ以上気にしても仕方ないと割り切り退院することとしました。
しかし、偶然なのか、私は難病である乾癬という病気を患っています。1986年頃に発病し、初診は東大病院で、治療は会社の診療所で行っていました。女子医大に入院したのを機に会社の診察所から移そうと思い、皮膚科の診察を受けることにしました。
外来に出向いたところ、川島教授が担当だと書いてありました。
「東大病院で初診を受けた時の川島助手かも知れない、まさか」
と思い、川島教授にこの話しをしたところ、「私かも知れない。当時、東大病院で助手をしていました」これには驚天動地。世の中は本当に狭いというのか、またもや各医にお世話になるのかと、私の運の強さにびっくりしたものでした。東大での診察を受けていた頃の患者数は、日本でわずか6000名と少なく、“友の会”が結成されていた位です。私は入りませんでしたが…。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 06 06 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
2003年2月、復帰出社の挨拶のつもりが、人事担当役員に「これ以上、職責を全う出来ません。退任したいと思います。ご一任します。」と別れの挨拶となりました。
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その時、手術は奇跡的に成功しました。しかし、すぐには視力は回復せず失明同然でありました。ふっと新任役員を任命された時、左目が見えずこれでは職責が果たせない「辞退しようか・・・。」と逡巡したことを思い出しました。
今度もまだ頑張れば仕事は出来たかも知れませんが、「私の美学」が許さなかったのです。ちょうど60歳でこれからという時に無念がなかったかと聞かれれば、「無念」としか言いようがなく、これも「人生」と受け入れる以外の手の施し様がなかったのです。
2003年夏、糖尿病センターに入院しました。これは毎年恒例の入院でもあり、これにより命が繋がれていると言っても良いものです。
病院に木村剛氏が見舞いに来られ、直近の金融危機について意見交換をしました。その時に、「中小企業専門の銀行を設立したいが協力して頂けないか。」との話しがあり、私は会社の顧問なので早速会長、社長にご相談した結果、「小泉改革にも役立つから、病気に差し障りがない限り良いのでは。」と承認を頂き、設立準備の手伝いをすることになりました。後の日本振興銀行であります。
しかし、好事魔多し、2003年暮、「癌のマーカーが4と末期に近い状態です。早速、精密検査を受けて下さい。首の腫瘍が原因と思われます。手術を覚悟して下さい。」と会社の診察所で所長、担当医双方より宣告を受けたのです。(来週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 31 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
この大手術の前後に隠されたエピソードがあります。
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手術直前の10月、小泉総理秘書官から連絡が入り、「この度、木村さんに金融再生委員会、いわゆる竹中プランのメンバーをお願いすることになったが、小泉は進退をかけて取り組むので、その旨お伝え頂きたい。」というものでした。私は木村理事長を訪ね、このことを伝えました。
小泉総理は私の大学時代のクラスメイトで、既に40年の親交があります。もう一つエピソードがあります。たまたま入院の翌日朝、官邸に総理秘書官をお訪ねする約束がありました。大分前からの約束でしたので、入院先の小田原から新幹線に乗り、東京で下りて会社の車で官邸に伺いました。「あなたの病状を総理に申し上げたところ、急遽お会いするとのことです。」と急転、久し振りに再会することになりました。
私は殆んど目が見えないまま執務室に入りご挨拶すると、「身体を大事にしろよ。」と、こちらが総理に労いの言葉を申し上げる前に、慰めの言葉を頂戴してしまい、20分程の面談ではありましたが、「これで
私の役割は果した。精一杯の人生だった。」と、悟りの境地でありました。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 30 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
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当時の時代背景は、総合商社の不行届きが一斉に指弾されることとなり、私達も関わりは少ないというものの業界全体の連帯責任をより強く求められることとなり、我が社も業界の雄としての責任を追及されることとなりました。
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私はその時点で両目の光を失いだしましたが、対策の為に業務目標を1年繰り上げて2年で完成させ、トップの要請に応えねばならないこととなってしまいました。
病状は急速に悪化、5メートル先が光って見えない程にもなりました。病状はますます深刻になりましたが、完成した新体制の実施の為に、全社津々浦々で説明会を開催し説明に巡回していました。
名古屋へ行く途中、余りにも目が見えないので、先輩の薦めで名医と言われた小田原の佐伯眼科に立ち寄り、診察を受けることとしたのです。既に大病院には1998年以降、診察を受けていたのですが、セカンドオピニオンのために急遽訪問することにしたのでした。診断の結果、左目が0.02右目が0.06と失明寸前で、病状は
「糖尿病からくる眼底出血による黄斑浮腫という難病で、治るか分からぬが早急に手術せねば助からない。」と宣告され、出張から戻ると同時に入院、即手術ということになり、2002年12月白内障2回と網膜症2回の計4回を1週間置きで角膜にメスを入れ、眼底の大手術を行うことになりました。(来週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 24 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
カルテル問題での凄まじいやり取りは、日本では想像もつかない国際ビジネスの厳しさを厭というほど経験しました。
私の今の国際金融に対する見方に大いに影響を与えており、なかなか素直に見る訳にはいかず、裏の裏を読み取るという人生観が仕上がったのです。
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しかも、それまでの経験で充分だったのですが、これに駄目を押した『事件』というのがありました。
この間、奇跡的に回復してからちょうど3年経った次第です。2001年3月に社長から「現場に戻れ」ということになり、新役員制度で執行役員としてコンプライアンスオフィサーと監査担当役員を任命されることになりました(コンプライアンスオフィサーは職責遂行上で監査と矛盾するので辞任しましたが)。
前代未聞な人事です。しかし、当時はどうしてももう一度社内制度を再構築せねばならないという商社を取り巻く経営環境がありました。
辞令を頂くと同時に、監査体制の再構築の為にコンサルタントとして木村剛氏を起用し、社内体制を整備することに専念しました。
当時の金融監督庁が作成した金融マニュアルを手本にさせて頂いたのです(五味廣文氏-後の長官-とは旧知の間柄でした)。
この間の経緯は木村剛著『「会計戦略」の発想法』に社内規定とともに収録されています。内部統制に興味をお持ちの方には一読されることをお薦めします。尚、本書は会員様には当クラブ8階イベントホールで20%OFFにて販売しております。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 23 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、話しを戻し、立ちはだかった事件についてお話ししましょう。
役員に選任される前後の1997年~2000年は、株主総会が大荒れでした。例のパチンコプリペイドカード事件です。総会は異例の長時間となりました。しかし、事件も納まりました。
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そこに降って湧いたのが国際カルテル問題でした。米国司法省からの訴えでしたが、独禁法上、ほう助罪という論法で反則金を支払えというものでした。
日本の公正取引委員会では、全く問題ないというものでしたが、米当局を説得出来ず、交渉を重ねることになりましたが大敗となり、巨額な負担を言い渡されました。これが代表訴訟へと繋がっていくのです。
結局、代表訴訟は本訴にならず、判決が下されました。
私はこの間の恐怖と凄まじさの経験がサラリーマン生活の有終を飾る契機となりました。
この難局を乗り切る為に、監査役会の諮問委員の制度が大いに貢献をしたと思っています。諮問委員の選任は各分野の専門家であること。若手であること。知名度が高いこと。三菱商事と関係のない方であること。中立かつ第三者としての知見を頂ける方としました。
その諮問委員の一人に木村剛理事長が経済・金融全般の委員として就任して頂いていたのでした。
参考までに、経営全般は横山禎徳氏(当時 マッキンゼー社長)、社会全般は斎藤精一郎氏(当時 立教大学教授)、法務全般は中島茂氏(弁護士で現在三菱商事の社外監査役)というメンバーで、今でも最強の布陣と考えています。(来週に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 17 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
先生と女将は一致して「水」により病を治すという姿勢は同じでありました。最近の環境問題を考えると20年前既に「高価な水」は巷では未だブームとはなっておらず、先駆けていたと思います
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先生のすごさは、女将が体調が悪くなると先生にしか治してもらえないという間柄でありました。私は奇跡的な復活を果たし、その後、激動荒波を乗り切り、2001年異例の監査役から最前線である執行役員(取締役に相当する)に返り咲くことになるのでした。
先生は私が現場復帰後、両目に異常を感じた2002年頃から癌を患ったとのことで、私が倒れると同時に他界されました。真に残念なことでありました。
今でも思い出すのは、先生のハンドパワーが水道水を天然水に変えてしまうのは言うに及ばず、ビールからアルコールを抜き、ワインをブドウジュースに変えてしまうことでした。その時、「逆は出来ないのですか」と聞いてしまい、先生から「その様な密造は法律違反だ」と叱られたことがあります。今では良い思い出となっています。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 16 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
水の話しは皆さんも興味がおありだと思うので続けたいと思います。小白井先生と佐藤社長の依頼で「水質の変化を科学的に立証出来ないか」ということになり、親友の化学メーカーの役員に頼み込み、分析をしてもらったり、他の化学会社にはダイオキシンに利くのではないかと実験をお願い致しました。
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その結果は微量ですが、データ上に変化が起こり、これが人体に良い結果を招くと希望を持たせるのですが、いずれも科学上の分析では「誤差の範囲」とのことで、とても水の効能説明には使えないものでした。
しかし、科学データ上は良くなっているので、人体にも良い影響が出るという仮定だけではセールストークにはとても使えませんでしたが、元来の水質の良さからコンビニ等で販売が可能になったのです。今は通信販売で「高級な水」として評判を得ています。
私は、この水を目一杯飲み続けました。実感として、良い水は健康に良いとの結論に至りました。それは、
・体の80%は水分である
・80%の水分が良い音楽、良い言葉に反応し、体内でハーモニーを奏でる
・耳と皮膚から全身に取り込まれる。
・その結果心が穏やかになる。
・写真集で見たことがあるが、水の結晶が音と言葉に反応する。
・細分化して吸収しやすくすることが良くありますが、悪い水で
あると体に悪いことになります。
というもので、人間の美と健康に水が大きく貢献するものと信ずることになりました。(来週に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 10 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
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私は皆さんのお陰をもちまして、職場復帰を果たしました。京都での治療の旅を薦めて頂いたのは、福島・新白河の宗教家、小白井先生でした。小白井先生との出会いは「水」でした。1990年だったと思います。
バブル崩壊の予兆が感じられる頃でした。私の親友が突如として病に倒れました。その彼が愛飲していたのが 「不思議な水」と言われるものでした。今、彼とは音信不通になってしまいましたが、優秀なバンカーでした。
「水は健康の素、良い質の水を飲めば糖尿病も良くなるということでしたので、私は先生に直接お目にかかり水を分けて頂くことになったのです。当時、先生はテレビの特番の人気霊能者と言われていました。確か、人気キャスターが司会をしていたと思います。
その先生を支援していたのが、佐藤さんという地元の有力企業の社長さんでした。先生と社長が組んで2000年頃に西郷村で素晴らしい天然水を掘り当て、不思議なことにその水に先生の声紋を吹きつけると、水質が良くなり、美味しい水となるのでした。今も販売されている「山王水」と呼ばれるものでした。(明日に続く・・・)
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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 09 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
依頼を受け、Mタクシーのドライバーさん約200名を前にして話しをしました。 京都に着き、迎えのMタクシーに乗ると本社へ行きました。
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演題は「病気と健康 ― 京都での治療」というものでした。
40分程度の話しでしたが、京都の風水はいかに人間を活気づけているか、皆さんはその様な所で観光客の方々、老人や病人の方々の目となり足となり、そして京都の顔として貢献しているのです」といったものだった
と思います。
しかし、さすがだと感心したことがあります。
先方の社長さんから(彼は元バンカーですが)「謝礼は交通費程度しか持てません。本当に若干ではずかしいのでご容赦ください。」とのことでした。私は「それで充分です。」と答えました。
そして、講演を終えて社長室に入ると「ありがとうございました。
これは往復の新幹線代です。あとは我が社のタクシーをどこまでもご自由にお使い下さい。京都中でもどこでも・・・」と言われました。私は所用があるのでとMタクシーに乗り、京都駅で降りました。
2 ,000円だったと思います。実に「しっかりした会社だ!」と感心したものでした。
京都、私はこの町をあえて「町」と申しますが、文化と文明と哲学が野菜サラダの如く、いつも食卓を飾り、時にはオイル、時には塩、時には胡椒をふりかけても、それぞれの味と姿を失わない、それが京都の「町」なのでしょう。そして、「先の大戦」を「第二次世界大戦ではなく応仁の乱」と平然と言う「町の気質」なのです。
次週は、奇跡の復活の後、立ちはだかった事件について触れてみたいと思います。(次週につづく・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 05 03 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
翌日、またもや同じ手順をくり返しながら、なにやらすっきりした気分で合気道の先生と共に四条の美味を頂きながら、町の発明家でもある御仁なので話題は尽きず、時には怪しげなメカを買わされて横浜に帰ると、家人に文句を言われたものでした。
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どうでしょうか約3ヶ月、暮れになると会社の診療所長と眼科の先生に見立ててもらうと、眼底の状態に改善が伺え、視力も回復しているのです。しかし、レーザー光線は診療都度50発は打たれています。
また、リンパ腫瘍は明らかに小ぶりになっている、ということで、奇跡的に翌年正月、正常に近い状態になりました。
人間の自然治癒力の凄さを体感しましたが、京都での治療代は「気持ちで良いのです。いくらでも・・・」と言われたのには困ったものですが、女将から「運賃も宿泊代もかかるので、ほんのお茶菓子程度で良いのです。私は人助けで、生かしていただいているのだから・・・」と受け取ってくれないのです。「他で頂いているので、遠方の方であなたはサラリーマンでしょ」との次第。私は何という世界に紛れ込んだのだろうか、と自問自答するのでした。今思うに、“夢のまた夢”だったのかもと・・・。
そして、翌年から本格的に職責を全うすることができ、奇跡的な回復を遂げ、周りの人々を驚かせることになるのです。京都通いは、6ヶ月間で計20日間だったと思います。
この奇跡が会社でも有名になり、関西の部長から電話があり、「京都のMタクシーのドライバーさんに講演してもらえないか。京都での顛末を話して下さい。」というものでした。(明日に続く・・・)

2009 05 02 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
今回はいよいよ治療です。京都駅に着くと、真っすぐ吉水へ向かいます。そこで一息入れ、ラフなスタイルで治療に出掛けるのです。往きは坂を下るので楽です。
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八坂神社を右に見て、松原通りへ向かい、そして宮川町祇園都おどりの歌舞練場を素通り、お茶屋さんの軒が連なり、提灯が格子戸の前にぶら下がり案内になっています。“ガラガラ”と戸を開け、女将に挨拶、4帖ほどの女将の部屋に入り待つこと10分。“ガラガラ”と格子戸が開けられ、もう一人、旅館の主人が登場するのです。合気道の達人で、京の町の発明家でもあります。昔は友禅の反物を扱う織物会社の社長だとのことで、商が成り立たず、今は外国人向けの旅館・ホテルに転身した京都の粋人でもありました。
春田泰子さん、実は4年前に他界されたのです。私で299人目の患者で今までで一番難しいと言っていましたが、とうとう300人目で人生を閉じられたとのこと。「人を治すことはそれを受けてしまうことだ。命がけだ。」と話され、「あなたは治ったけれど、他人を治せると思わないで欲しい。救われた命は大事にせねば。」と言われたことがあるのです。
女将から「お風呂に入りやす」と声をかけられ、私は恐縮しながら治療の前に血行を良くするのだということで風呂場に行くのです。すると500個ぐらいだろうか、湯船の中にトルマリンが入った少々ぬるめの湯に入るのです。10分経ったところで、「浴衣に着替えてこちらへどうぞ」と女将と合気道家の待つ8帖間、そこには神棚があり、いかにも祇園のお茶屋の奥座敷という構えの和室でした。
目をつぶっていると、合気道の先生の気合が合図で女将の「リンパ潰し治療」が始まるのです。「えいっ」と銀色の棒でリンパ腺を突くこと数分、激痛が走り、全身からの汗が飛び散るのです。
その瞬間は目の前が真っ白くなり、更に汗がしぶきとなって散っていくのです。
どうでしょうか。30分経つと真っ暗の中、なにやら白い灯影なのだろうか、薄っすらと蒸発していくような気がするのです。
気を失うように寝込むこと小一時間、目が覚めると血行があきらかに良くなっているのです。果たして眼底の出血には良いのだろうか分からないが、女将と世間話しをし、お茶を2、3杯楽しみながら更に魔法の水を飲むも不安を抱きながら祇園を後にし、丸山公園の宿に歩いて行くのです。
しかし、さすがに坂がきつく、タクシーを乗ることが多かったのです。京都祇園でのまさに滅多に経験が出来ない夢、まぼろしの時空だったのです。(次週に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任するに至った。
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2009 04 26 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
私はこの3時間コースに3時間足す6時間コースがあります。3時間でいつも行うのは、八坂神社の枝垂れ桜前の占い“八坂の母“に立寄り(いつも1時間は待つ)、生年月日での運勢を見てもらうのです。
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いつも言われるのは、“あんたは運がないねえ、生まれ日だけどね”
という答えを貰うが、何かあると今度こそ運が良いねえと言われないかと思うのだが、決して間違わないのです。“私は運がないのだ。
頑張ろう“とつぶやきながら必ず南禅寺の湯豆腐”順正 “へ行くのです。決まって時間は午後3時、一番静かで安上がりの早めの夕食を大広間でとるのです。そして庭を遠目にしながら”ほっと“一息つくのです。この2つで3時間、足せば6時間コースとなって行くのです。八坂から順正へ、順正から鍵善へ・・・戻るというものなのです。
本当に時間が止まり、そして京の雅と悠久の佇みで一刻の安らぎに浸るのです。いよいよ次は治療です。(明日に続く・・・)

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1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任するに至った。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 25 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
史実ですが、母方の先祖に戦国武将の関十郎衛門という織田信長の奉行の1人がおり、その内儀が森蘭丸の姉で、欄丸は信長公と共に本能寺で果てたということがあります。
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私は、京都について話し出すと途切れることなく次から次へと走馬燈の如く描写が続くのです。
そこに京都のお茶屋「春田」の女将が現れ、また、時宜を得て同窓同期が丸山公園の知恩院の宿坊を旅館に衣替え、「吉水」という名で私の京都通いの第一歩、1998年9月に開業したのです。
祇園宮川町に「春田」はあります。ここでの治療は優雅さと凄惨を織り成したものだが、極めて荒治療でした。今までの京都めぐりが本当に楽しく優雅なものだけに、真逆とはこのことかとお話しするためにも「3時間コースめぐり」を一筆申し上げねばなりません。
私は西の方へ行く途上、京都駅で途中下車するのです。コースと立寄りはいつも決まっています。昼着くと、まず祇園のお茶屋「恵美」で京弁当を食べるのです。カウンターに座り左を見ると和室の向こうに小さな庭が見えるのです。ここで小1時間過ごすと、清水寺へ行き、舞台から眼下に京都を見下ろすのです。
そして、二年坂、三年坂と下り、途中にある「かさきや」で田舎汁粉を注文、年老いた主人と二、三言葉を交わし“渋い緑茶”とお汁粉を楽しむのです。
そして高台寺へ向かい、途中で手焼きせんべいを1枚買い、歩きながら食べるのです。醤油味がとても新鮮です。
高台寺は秀吉の正妻寧々の里です。そこで、参拝し石段を下って、石塀小路から八坂神社へ行くのです。丸山公園の枝垂れ桜を廻り、四条河原町へ向かうのです。途中、水上勉の小説で有名になった「鍵善」でくずきりを冷たく頂くのです。黒みつが軽い疲れを癒してくれるのです。
そして、祇園白川の「いづう」に立寄り、鯖寿司を買い込み、その足で南座隣のそば屋でニシンそばを食べ、四条大橋を渡り、横丁を入った突き当たりの「村上重」で漬け物(冬なら千枚漬がおいしい)を求め、帰路へと一目散に京都駅へ行き、“ひかり”に飛び乗り最終目的地に向かうのです。(来週に続く・・・)

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1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任するに至った。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 19 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.04.18
[入山メモ] 大航海時代がやってきた 病気編その38 ~サラリーマン人生ラスト10年病魔との闘い~― 京都での驚くべき超能力者の治療 その1 ― ●お知らせ●ブログ読者をイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
平安の世からの都、京都は説明しがたい不思議な場所であります。
私は若い頃から旅に出ると時間があれば京都に立寄り、定規で計ったようにいつも同じコースをさっと巡り、風の如く去っていく習慣がありました。ここれは仕事での出張に際しても東海道新幹線を利用する場合、同じ様な行動を起こすのでした。パターンは、3時間コース、半日コースと2種類で、道順も立寄所も、大概いっしょというものです。その京都で治療が目的で逗留することになるのです。
ワクワク感だけで病気が治るということではありませんが、京都には不思議な“氣”というものがあるのです。
『祇園茶屋逗留』の具体的な情景を話しする前に、私の正当性、蓋然性を言い訳として説明しておきましょう。
(言い訳)
・京都には平安の世に生まれた都市建設の極意、すなわち「風水」があり、「氣」の「流れ」が目、鼻、耳、口から、そして肌から体内に滲みこんできて全身が熱くほてり血流が良くなるのです。
・京都人気質です。人々はあきらかに弱い人、望みを失った人、
何かを必死に耐えようとする人、つまり助けを求める人にとても
やさしく、奥深く受け入れてくれるのです。
超能力、匠の技、人知を超えた説法をもって不思議な世界をかもし出していると思うのです。
・宗派の縁が深く関わっているのではないかと思うのです。
父方は、最澄が開祖した天台宗から親鸞の浄土真宗に改宗したお寺さんが菩提寺であり、いずれも京都に総本山があります。(最近ではあるが、既に私は生前に「弘誓院釋聖彦」の法名を頂戴しております)
・そして60年前の終戦直後、父が物価統制令違反という罪状の
冤罪(当時、心無い密告が流行していたようです)で、京都の拘置所に収容され、母に連れられ下着を持って面会に行き、鉄格子越しの父を見た記憶は消え難く、今でも鮮烈に眸に浮かんできます。
このことは続編に予定している金融編で書きたいと思います。
結局、無罪放免でしたが、社会的にも経済的にも制裁を受けた
ことには変わりなく、当時の官憲の在り方について深い疑念を抱き、今も引きずっているのです。(明日に続く・・・)

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。1965年3月慶応義塾大学経済学部卒業後、三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス株式会社代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、そのうちの280億円をエム・シー・ファイナンス代表取締役社長として負担する。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
1998年6月より2008年6月30日まで三菱商事株式会社情報産業管理部長、監査役、執行役員(監査担当)、顧問を歴任し、この間の激務を通じ、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任するに至った。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 18 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.04.12
[入山メモ] 大航海時代がやってきた 病気編その37 ~サラリーマン人生ラスト10年病魔との闘い~●お知らせ●ブログ読者をイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
株主総会当日、光を気にして眼をつぶっていました。先輩役員より「どうした。眼をつぶっていたが・・・」と問いかけられ、「実は左目が良く見えないのです」と答え「眼だけではなく首も・・・」と続けました。その時から丸1年過酷な治療と節制が始まりました。
一日2万歩、食後は必ず30分歩くという日課に加え、眼科、内分泌科が加わり、元々の持病である糖尿病、皮膚病そして会社診察所での完全管理ということになり、文字通り「病院巡り」が始まりました。
また、糖尿病については年1回2週間体験入院することでデータのチェックと食事療法のマスターを行っていましたので、とても厳しく自制することになりました。
しかし、いろいろな方からいろいろな治療法のアドバイスを頂きました。当然、漢方やサプリメントの薦めも多く、また、良い水や温泉療法もありました。
その様な中、10年前から親交のある宗教家から「京都のお茶屋の女将が“リンパ潰し”という名の治療法で関西の財界人を治しているのでちょっと行ってみないか」と助言を頂きました。よもや、超能力の方まで尋ねるとはと思いながら、その年に京都丸山公園で旅館業を始めた友人の宿に泊まりながら、聞こえは良いか悪いか「祇園のお茶屋通い」が月1回2日の日程で始まることになりました。
とうとう、何でもみてやろうという小田実流の気持ちで京都通いが始まったのでした。
読者の皆さんには到底信じられない「ありとあらゆる療法」が始まり、奇跡的に全快することになるのです。
京都の治療の話しは、次週に詳しく致します。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 12 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.04.10
[入山メモ] 大航海時代がやってきた 病気編その36 ~サラリーマン人生ラスト10年病魔との闘い~●お知らせ●ブログ読者をイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、今週からはサラリーマン人生最後の10年で起こった病魔との闘いについて語りましょう。
1998年6月大学病院の眼科で検診、左目にレーザー光線を200発打ち込みました。元に戻る訳でもないのに“治そう”と不退転の決意で臨むことにしました。
しかし、目前に迫る株主総会。「眼が見えなければ任務が全う出来ない、まさか字が読めないなんて今更言えない」と不安が募るばかりでした。
念のために、会社の診察所で所長に診察を受けた結果、眼の他に首のリンパ腺に腫瘍が発見され、直ちに精密検査を受け、断層写真を撮ったところ、癌性の腫瘍で悪性かどうかわからないが経過をみる必要があるということで大学病院で癌検査をすることになったのです。
診断結果は、悪性とは言えないが甲状腺癌と判定されました。今後は「眼か首か」と将来の不安は隠せず「この様なことで役員が務まるか・・・」と悩み、1人で自問自答、誰にも相談せず株主総会に臨むこととしました。
異議なく監査役に選任され、新しい時代を迎え経営を監視する役割を担うことになりました。社長には「こんな私でいいのですか」と何度も聞いたが、「これからの会社経営は君のキャリアが必要なのだ」とのことで、私は心とは裏腹に元気よく「わかりました。ありがとうございます」と挨拶を致しました。(明日に続く・・・)

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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 10 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.04.04
大航海時代がやってきた 病気編その34 ~危機管理 世紀のスキャンダル闇の社会との壮絶な戦い~ 《パチンコカード偽造・変造事件 その6》 ●お知らせ●ブログ読者をイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
長いサラリーマン生活が終わりに近づき、誰もが望む役員の道が開けた時に起こりました。
それは最後の部長職の引継ぎの日の夜のことでした。
左目の視野に突然真っ黒な墨が一筋、二筋と流れ、とうとう眼前を黒い幕が遮ってしまいました。「あっ!しまった。眼底出血を起こした。糖尿病の合併症の失明かも知れない」と人生の暗転とはこのことでした。56歳の働き盛りを突如として恐怖のどん底に落とし入れるものでした。
その日は、3時間に亘って業務引継ぎを行い、余りにも熱が入って・・・(実は余りにも部下が理解してくれないがため、怒鳴りまくったのでした)。
結局、自分に帰って来るのだなぁ。申し訳ないことをした、と言うも、覆水盆に返らずとはこのことでした。
吾がサラリーマン生活最後の幕明けが、失明という恐怖でありました。その5年後に
両目に及ぶことになろうとは思いもよりませんでした。
それから今丁度10年が経ち、大航海時代の新しい船出のドラが鳴り、碇を引き揚げ、帆を張れる幸せが再び来ようとは思いもよりませんでした。まさに霧笛を鳴らしながら大海原に向かう日本丸を思い浮かべることが出来ようとは胸が一杯です。
私には1人しか孫はいませんが、その孫がもう高校1年生になります。以前話した嫁にも行けないと文句を言った娘の子なので、外孫ということですが、女の子です。ちょうど生まれたのが1993年バブルの崩壊の時です。莫大な損失を処理し、あたかも敗残兵の如くみじめな思いをして本社に戻った頃でした。その4年後に防犯カメラが自宅に入り、監視体制が整った時、カメラの前で無邪気に踊る、家に入って画面を見て喜ぶ何も判らぬ孫を見ながら、何とも複雑な思いを現実のものとして感じ、不思議な心境でありました。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 04 04 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.03.29
大航海時代がやってきた 病気編その33 ~危機管理 世紀のスキャンダル闇の社会との壮絶な戦い~ 《パチンコカード偽造・変造事件 その5》 ●お知らせ●ブログ読者をイベント無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
これは、ドラマでも小説でもなく本当に起こった話しです。究極の危機管理だと思うので、あえて話しをしましょう。
1996年9月30日、10月1日、そして10月30日の3日間で合計7回怪電話にみまわれました。当日、会社で受話器をとった瞬間、異様な声がしたのです。とっさに保存メッセージ機能のボタンを押しました。いずれも怪電話でしたが、最後のものは脅迫電話に類するものでした。

早速、関係者と相談し被害届を出すとともに、録音内容の分析、身辺保護を行い、内外に万全の対策をとりました。自宅に防犯カメラが設置され、警備して頂くことになりました。2年も続くことになり、家族のストレスは計り知れないものだったと思いますが、この間にも心当たりのない郵便物が何度か来ました。
しかし、何事もなく1998年を迎え、会社も私も危機を脱し、関係者の尽力の甲斐あり、全て無事に収束が図れたことは本当に良かったと思います。改めて感謝の意を表したいと思います。
ただし、この間一人での行動は止め、全て複数にて移動したり、常時自分の証明が可能なようにしたり、また、通勤途上は弁護士の指導を頂き、経路を変えたり、後を振り向いたり、また、乗り物では細心の注意を払ったものでした。私のみならず私の仕事の仲間にも及ぶこともあり、大変な心配と迷惑を、特に部下に及ぶこともありま
したので、深く陳謝しなければならないと、今でもあの一刻一刻が走馬灯の如く駆け巡り、心が痛むのです。
あの時「まさか」ということも、今思い気付かされるのですが、これも無事終わったことと安堵しているのです。
しかし、私の健康は深く傷ついたものでした。1998年6月、役員に選任、内定頂き、まさに株主総会で承認を待つちょうど10日前のことでした。大変な病気が発症したのです。(次週に続く・・・)

ご愛読への感謝の意を込めまして、通常フィナンシャルクラブ会員のためのイベントに、ブログ読者の方々をご招待いたします。
フィナンシャルクラブでは5月より「オープン講座」開講します。政治・経済・投資など幅広いテーマと講師陣で講演を行います。
第1回目はフィナンシャルクラブ代表 入山利彦 テーマは「サブプライムローンの正体を推論する」です。今回お話しをする入山は三菱商事株式会社で長い間金融事業に携わり、現在も金融コンサルタントとして活躍しています。現在の国際的な金融不況の元兆と言われる「サブプライムローン問題」の正体を推論していきます。このお話しを通じて新しい世界の全体像、今後の行く末が見えてくるのではないでしょうか?

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 29 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009.03.28
大航海時代がやってきた 病気編その32 ~危機管理 世紀のスキャンダル闇の社会との壮絶な戦い~ 《パチンコカード偽造・変造事件 その4》●お知らせ●ブログ読者をイベント無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後へ!
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
不正防止の為、全社を挙げて対応することになりました。これには官公庁は元より業界挙げての「信頼」を賭けてのもので、当事者のカード会社は「社運」を賭け、出資者は「社会正義」を賭けての戦いでもありました。
この間、何度も危機に直面し、メディアにも大々的に取り上げられ、これが為にパートナー間での亀裂が生じたことも多々あり、また、監督官庁より強い懸念の表明により、技術と営業そして経営が一丸となり犯罪と闘ったものでした。
挫折を重ねながらも6ヶ月経った頃の夏には、一応の成果を見て収束に向いました。
あの頃は、弁護士団も強力なメンバーがそれぞれの立場で分担して頂いた他、公認会計士事務所も困難ながらも意見書をまとめて頂いたのを想い出します。
警察当局も威信をかけ、NTTデータも技術の面子をかけ、また、全員が面子も捨て、あらゆる対抗措置をとりました。
私達は、見るもの聞くもの破天荒なものでしたが、トップから最前線に至るまで苦しい中、一糸乱れぬ行動をとったものでした。
その様な時、徐々に落ち着きを取り戻し、異常データも納まり、巷では、不正カードや不正リコーダーが大量に放置され、不穏な空気が蔓延しているという情報が流れ、みんな緊張した日々を送っていました。
私達にも、極めて的確で優秀な弁護士さんが専任でアドバイスをしてくれました。
彼が私に注意を発したのは、「この様な時には、最も効果的なポストの人に対し警告を出すことがある。それには、上下、左右から見たら幹部であり、カード会社の役員を兼ねている貴方だと思う」とのことでした。(明日に続く・・・)

ご愛読への感謝の意を込めまして、通常フィナンシャルクラブ会員のためのイベントに、ブログ読者の方々をご招待いたします。
フィナンシャルクラブでは5月より「オープン講座」開講します。政治・経済・投資など幅広いテーマと講師陣で講演を行います。
第1回目はフィナンシャルクラブ代表 入山利彦 テーマは「サブプライムローンの正体を推論する」です。今回お話しをする入山は三菱商事株式会社で長い間金融事業に携わり、現在も金融コンサルタントとして活躍しています。現在の国際的な金融不況の元兆と言われる「サブプライムローン問題」の正体を推論していきます。このお話しを通じて新しい世界の全体像、今後の行く末が見えてくるのではないでしょうか?

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 28 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。 ブログ愛読者限定でイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後をご覧下さい。
さて、昨日の話しの続きをしましょう。事務局は80名で全社から集められました。また、カード会社も40名の弁護団を含め、全社一丸となって対応することになり、秘密裏に進めましたが、次第にマスメディアに取り上げられることになりました。

私は更なる心労と共に、徹夜に次ぐ徹夜と事態の異常さと恐怖から6ヶ月経ち、体重が10kg落ちることとなり、ちょうど15年前のメキシコでの赤痢騒動を思い出すに充分なほど痩せてしまいました。
当然ながら事実を把握し、原因の究明が進むにつれて、責任論が出て来ました。「技術だ、やれ営業だ、当局は何をしているのか・・・」
果てしない論争となりましたが、「技術で対抗」と方針が定まったことにより、再発防止等が試行錯誤を積み重ねながらも徐々に効力を発揮し、収束に向かうことになりました。
これに伴い、一体誰の責任なのかに議論が移り、結局は「当事者間でスタートの時に明確に役割を決めていなかったこと」と「ハイテクではなく、人力によるローテクが解決の決め手になった」こととなり、私のその後の経営に対する姿勢に決定的な教訓を残したのです。
これは、①事実の確認 ②原因の究明 ③再発の防止 ④処分というもので、この前提にあるのは、スタート時の当事者間での取り決めがいかにトラブルの防止と円滑なる事業の運営に資するのかということでした。
まさにこれが経営の危機管理の基本であると認識したのです。
しかし、事態はこれに止まらず思わぬ方向に発展し、自らの安全を護らねばならないという事件が起こるとは思いもよりませんでした。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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ご愛読への感謝の意を込めまして、通常フィナンシャルクラブ会員のためのイベントに、ブログ読者の方々をご招待いたします。
フィナンシャルクラブでは5月より「オープン講座」開講します。政治・経済・投資など幅広いテーマと講師陣で講演を行います。
第1回目はフィナンシャルクラブ代表 入山利彦 テーマは「サブプライムローンの正体を推論する」です。今回お話しをする入山は三菱商事株式会社で長い間金融事業に携わり、現在も金融コンサルタントとして活躍しています。現在の国際的な金融不況の元兆と言われる「サブプライムローン問題」の正体を推論していきます。このお話しを通じて新しい世界の全体像、今後の行く末が見えてくるのではないでしょうか?
フィナンシャルクラブ 『オープン講座』のご案内
【開催日時】 5月19日(火) 19時~20時30分
【会場】 九段下フィナンシャルビル8階 イベントスペース
東京都千代田区飯田橋1-3-7九段下フィナンシャルビル
【講師】 フィナンシャルクラブ株式会社 代表取締役社長 入山 利彦
【テーマ】 「サブプライムローンの正体を推論する」
【参加費】 1,000円
ブログ閲覧者限定
「ブログを見た」と申込みした方 無料
申込受付:
フィナンシャルクラブ事務局
TEL: 03-3239-7114
MAIL: info@financialclub.jp
2009 03 22 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。 ブログ愛読者限定でイベントへ無料ご招待いたします。詳しくはブログの最後をご覧下さい。
さて、先週の話しの続きをしましょう。私は平凡とは言えないまでも大企業に勤める普通のサラリーマンであり、市井の人(一市民)です。そこに降って沸いた小説の様な映画の様な本当の話しです。
1996年正月に心配していたことが現実に起こってきました。
パチンコホールのデータの異常値が大きくなったのです。対策は事実を把握することから始まり、それぞれのデータから統計をとり、割り出すことでした。
システムを組み異常データを推定し、現場を押さえることでしたが、プリペイドカードシステム自体が、この事態を想定外としていたこともあり、作業は困難を極めました。ともかく事実の確認と原因の究明を行うことを優先したため、警察当局の捜査上の必要性から事態の推移を見守ることになりました。これが傷口を深くすることになってしまいました。
やがて推定値の把握ができ、なんと1日に3億円の被害が発生し、1ヶ月で100億円を超えることになってしまったのです。
ここで大失敗が起こってしまったのです。想定する桁数を超えたため、データ表示に誤りが起こり、最大単位の数が消えてしまうことになりました。なんと誤差が100億円単位となってしまったのです。結果として、被害額
を過少表示することになったのです。
これはどんなシステムでも機械は人を選ばず、過ちは人によって起こるということで、最先端技術の信頼性を疑う以前の問題で挫折してしまいました。人には過ちがあり、機械は人を選ばないという教訓でありました。
この様な失敗を重ねて、経営上の大問題に発展していくのでした。
その時、トップから「カード会社の監査役は何をやっていたのか」と厳しい指摘があり、またもや私は引責の際に立たされましたが、カード会社の監査役全員が署名した意見書をカード会社の役員会に提出し、「職務を全うしている」ことで納得してもらい、引責には至りませんでしたが、とてもつらい申し開きでありました。
事態はどんどん深刻化しました。私はバブルの際の苦しい経験があるので、対策本部立ち上げを進言し、経営トップがメンバーとなり、私は事務局部長として最前線で指揮をとることになりました。
その時の対策本部のトップに、バブル崩壊時の人事発令を出した尊敬する上司が就任したのです。
バブル崩壊に際し、重大な決断を行ったメンバーと重なっていることとなり、本当に因果はめぐる、人生の綾を痛感し、「何がなんでも戦うのだ」という不退転の決意で臨むことになったのです。
(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
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ご愛読への感謝の意を込めまして、通常フィナンシャルクラブ会員のためのイベントに、ブログ読者の方々をご招待いたします。
フィナンシャルクラブでは5月より「オープン講座」開講します。政治・経済・投資など幅広いテーマと講師陣で講演を行います。
第1回目はフィナンシャルクラブ代表 入山利彦 テーマは「サブプライムローンの正体を推論する」です。今回お話しをする入山は三菱商事株式会社で長い間金融事業に携わり、現在も金融コンサルタントとして活躍しています。現在の国際的な金融不況の元兆と言われる「サブプライムローン問題」の正体を推論していきます。このお話しを通じて新しい世界の全体像、今後の行く末が見えてくるのではないでしょうか?
フィナンシャルクラブ 『オープン講座』のご案内
【開催日時】 5月19日(火) 19時~20時30分
【会場】 九段下フィナンシャルビル8階 イベントスペース
東京都千代田区飯田橋1-3-7九段下フィナンシャルビル
【講師】 フィナンシャルクラブ株式会社 代表取締役社長 入山 利彦
【テーマ】 「サブプライムローンの正体を推論する」
【参加費】 1,000円
ブログ閲覧者限定
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申込受付:
フィナンシャルクラブ事務局
TEL: 03-3239-7114
MAIL: info@financialclub.jp
2009 03 21 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
私は1996年から1998年の2年間の出来事を思うと、今でも胸と目頭が熱くなります。これは危機対応そのものの顛末であったと思います。許される限り話さなければならないことで、あらゆる局面での極めて重要なケーススタディーと思って頂き、ぜひ他山の石となしていただきたいと思います。
さて、皆さんは10年以上も前のことなので、記憶から遠のいていらっしゃるかと思いますが、パチンコをプリペイドカード方式で運営することにしたもので、いわゆるパチンコ業界の透明性を高め健全経営を目的とした全国的に展開されたものでした。
これに当たったのは警察とNTTそして大手商社でした。
私の会社は東日本をテリトリーとしたカード会社に出資し、役職員を派遣しました(今はもう撤退してしまいました)。
全ての始まりは1995年12月、ジングルベルが鳴り響き、景気も良く、カード会社は売上も10兆円と好収益であり、株式上場の期待が最高潮に達した頃でした。カード会社の役員から「何か変だ。数10店のデータが異常だ。カード発券よりはるかに上回った出玉(使用)がある」と報告があり、更に「誤差とは言えない、億円以上だ。大変なことだ」と二矢が射たれました。
会社のバックがバックだけに、私は「大丈夫」と思いましたが、4~5年前のバブルの崩壊が生々しいだけに「まさか」と思い、私はトラブルシューターなのかトラブルメーカーなのか判らないが、えらいことになった、と感じました。その時、私は本社の管理部長で、カード会社の監査役も兼務しており、いわば「当事者」でした。
平和に明けた正月から丸2年壮絶な戦いとなるとは思ってもみませんでした。ただ、万一の場合を考え、バブル崩壊で後手にまわった反省から、「手をどう打つか」を考え抜いて、年頭の挨拶に出社しました。すでに覚悟は出来ていたと思います。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 15 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、今回はバブル崩壊後の転落から転進、そして再起への話をしましょう。
1993年4月に本社に戻りましたが、戻るべき部署は用意されず、席もありませんでした。その時の心境は若かったのでしょう、(51歳なので若くはないかもしれませんが・・・)「無念」の想いで一杯でありました。冷たい視線を感じながらも「真実は何か」を胸に出社しましたが、周りから「財務の失敗で賃金カット、ボーナスカットされ、会社は未曾有の赤字転落した!」と非難轟々でした。
席がないこともあり、以前の取引先に社長辞任の挨拶に出掛けると「言い訳に歩いている」と散々でした。これも「身から出た錆」と整理するのが精一杯でした。
その様な時、本当に若い頃から尊敬していた幹部が上司として着任し、「君には試練だが、株主総会が無事済んだら部長に任命する」と内示がありました。
地獄に仏とはこのことだろうかと思いました。人生の綾が織り成す人情劇とは、このことだとも思いました。その後に、上司と部下という関係で更に大事件に繋がっていくとは夢にも思いませんでしたが・・・。
この時期での教訓は、情報は一部のトップのみが承知している場合、事情が判らぬ社内での混乱がいかに大きくなるものか身を持って知りました。
「情報の共有と開示、透明性」が企業の力としていかに重要なものなのかを思い知らされました。
この間、奇跡的にもバブルの崩壊過程という厳しい時期にもかかわらず、新しい病が起こらなかったのです。気力と体力を回復して新しい部署の部長として着任、部長の席についた時、事情が呑み込めぬ部下は、狐につままれた様な顔をして恐る恐る遠巻きに挨拶を交わすことになったのです。会社人生で最大の試練を乗り越えることが出来ました。(続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 14 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。
経営の教訓とは何だったのか。皆さんのお役に立つと思うのでキーワードを集めてみました。
1965年会社人間になってから、ちょうど30年目に得たもので、その後のコンプライアンス、ガバナンスの礎になるものでした。
危機管理(リスクマネジメントルール)
1.経営の監視
①アクセルとブレーキを分ける
②過度集中排除
③失敗は得意技で生ずる
2.監査の要点
①嘘を言わない
②隠さない
③逃げない
3.不祥事の対応
①事実の確認
②原因の究明
③再発の防止
④処分の実行
4.経営決定のプロセス
①充分なる調査
②充分なる議論
③充分なる比較検討
④トップの決断と機関決定
経営判断(ビジネスジャッジメントルール)
1.経営判断プロセス
①充分なる調査を行ったか。
②充分なる議論を行ったか。
③実行すること若しくは実行しないことによるメリット・デメリットの比較検討を行ったか。
④社内ルールの遵守と機関決定による承認を得たか。
2.問題解決プロセス
①事実の確認
②原因の究明
③再発防止
④社内処分
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 08 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
私はバブルの生成と崩壊で大変な試練を受け、辛酸をなめました。
これにより学んだ教訓は、
・経営の監視
①アクセルとブレーキを分ける
②過度集中は排除する
③失敗は得意技で生ずる
というもので、
①はアクセル即ち営業、ブレーキ即ち管理を1人の幹部に任せてはならない。
当時の財務部局がチェック機能を持ちながら財テクに走った、そして
失敗し、巨額な損失を出したことを顧みて言っているのです。
②はやり過ぎてはいけないというものです。仮に正当性があってもやりすぎたことにより、相手が倒れてしまい取り返しがつかなくなることを言っています。過ぎたことは及ばざるが如しということです。
③は最も深い味わいのある反省です。得意技は、気の緩みがあるものです。裏を返されることが柔道でよくあります。まさにこれが教訓で、“すき”は小さなものであればある程、大きく失うのでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 03 07 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
1993年3月24日から、私は金融界から退場させられ、以降再び社命を頂くこともなく、金融の仕事に戻ることもありませんでした。
そして、職場で“事件”を語ることもありませんでした。
2008年7月、木村剛氏にうながされ復帰し、「週刊!木村剛」のブログで沈黙を破ることになりましたが、あくまでも皆さんお一人お一人の勉強の為に、知識の一つとして役立たせて頂くもので、これは私の最後の天命と感じている次第でもあります。
皆様には、出来ればフィナンシャルクラブに加わっていただき、二度と起こしてはならない欺瞞を議論を重ねながら一緒に退治しようではありませんか。皆様の参加をお待ちしております。
それでは、転落から転進、そして再起への話しをしましょう。
本当にとんでもない事件と病気が襲ってくるのでした。
次週に進む前に、本当につらい人間模様をエピソードとして触れたいと思います。まさに人間ドラマであり、戦国時代絵巻でした。
<本当は語りたくないほどのエピソードと人間ドラマ>
その一 私の目の前で打ち合わせ中に心筋梗塞で倒れ、そのまま病院へ直行、一命をとりとめました。本当に瀬戸際の交渉でした。
その二 私は厳しい交渉の後は、にこやかに握手してエレベーターホールまでお見送りすることが常でした。ところがその夜、ご本人はくも膜下出血で倒れたとの一報を受けました。その方は「今夜一杯やろう」と申されたが、私は「身体が大切なのでお休みされた方が良いのでは・・・」と断ったのでした・・・。
その三 「私が約束する!」と一存にて事を進めていく部長が多くいました。そんな中、
「貴社の役員会での決定ではないと受けない」と何回もとめたことがあり、その後の修羅場を思うと「救われた。よかった」と・・・。
その四 私は孤独な戦いの中で、神田の一隅で頑張っていた時、親会社での幹部社員が時々来てくれましたが、「なんだ元気じゃないか!」と声がかかるとなんとも奇妙な気分になりました。
その五 いよいよ落城という時、吾がボスに「話しがあります」と面会を申し入れたところ、ボスは「判っている。出処進退だろ。俺は辞めるが君は残れ」と一言、万感の思いで辞去したのでした。今思うと、あの頃は「武士道」で立ち向かったのだなあと振り返って思うのです。
その六 私は戦いが終わって敗北したにも拘わらず、親会社に戻ることになりました。その時、娘に「パパが本社に戻るから結婚相手を捜してやる」と言ったことがあります。娘は「パパはあんなに損をし、マスコミから叩かれているので、誰も相手になってくれない!」と言われ、こんな悲しいことはありませんでしたが、いつの世にもこの様なドラマはあるのです。
その七 時が経ち、いよいよ総決算した結果、損失は奇跡的にゼロに近づき素晴らしい復元力でした。しかし、この様なことを言うと「言い訳」とされるし、損失の事実は消せなかったのです。その後、正常感を取り戻し、私は役員になり、顧問になり、43年勤めることが出来ました。これは語れないところだが、この間の苦悩は筆舌に尽くせないものでした。
その八 悲しいことに慰労会や歓送迎会もほとんどしてもらえませんでした。
人は去り、また人は訪れぬ時代が続きましたが、4人の公人が変わらぬ親交を続けてくれました。今思うと、本当に有難いことでした。民間人はほとんど寄り付かなかったのに、と思いますが、然し、寄り付けぬ程、私が落ち込んでいたのでしょう。
友達にはかえって悪いことをしたと今は思うのです。
2009 03 01 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
持ち合いをしている企業や金融機関は、売れない株式を有効活用するためには、第三者に貸し出し、品貸料として当時の長期プライムレート+αで利益を得て、遊休資産の活性化を図り、いささかなりとも会社の収益に貢献するといった近視眼的判断で“うっかりひっかかり”、貸した株の大暴落を引き起こすことになったのです。
当初はなぜ株が下落するか判らなくて狼狽し、証券マーケットは売り一色になっていくのでした。
1989年 12月末 ダウ 38,957円
1990年 10月末 19,781円
暴落幅(10カ月間)▲19,176円
半値ということになり、仕掛けた外資のS社は一瞬にして5,000億円を稼ぐにさして時間がかからなかったのです。
当時のS 社東京支店長は、その後本社の社長に大栄進したと聞きました。(外国人の方でした)これを眺めながら打つ手もなく、茫然自失。本当に悔しい思いをしました。私は1990年1月4日年頭の挨拶で、証券運用から総撤退を宣言し、周囲は驚いて「未だ上る」との意見が大勢を占めていましたが、唯一、信託銀行で行っていた運用は信頼関係にあったため、一つ一つ確かめながら解約することなく残す決断をしました。これが歴史的な失敗となり、1993年3月24日の日本のみならず、外国の朝刊第一面に私を名指しで“280億円の財テク損失・・・”と報じられることになるのでした。その後の人生は暗転し、棘の道を歩むことになりました。そして、金融界は壮絶な修羅場と化していくのでした。
その修羅場は今のサブプライムローンで打撃を受けた金融マンに匹敵するものだったと思うのです。
裏切りや誹謗中傷、病気で倒れる者、自殺者、そして左遷、引責退社と人間の裏表の人生劇場をスクリーンで見る様な、それは下克上の応仁の乱から戦国時代そのものでした。今でも思い出したくない情景であります。これ以上、文章では控えたいと思います。
「金融編」に譲りたいと思います。しかし、書かずとも今心を痛め、これから何がこの日本で起こるかを憂慮している方々で、ご希望者がいらっしゃれば、フィナンシャルクラブサロンでお話ししてみたいと思います。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 28 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
針の一穴、これは株式持合の盲点のことです。
この一穴で一気に崩れ去っていったものは、特定の銘柄から始まったものと記憶していますが、日本的な資本市場の崩壊へと導いて行くのでした。
即ち、日本的な資本形態と言われるものですが、これは企業同士で株式を持ち合うことでした。
これにより得られるメリットとしては、
・安定株主による経営を円滑に行う。
・浮動株を少なくすることにより株価を高値水準で維持する。
・時価発行増資を行い、低コストの資金が得られる。
・株式持合いで、増資によるマーケットへの影響を少なくする。
これでは、本当の意味での資本市場のメカニズムが働かないと言わざるおえないのです。
副作用としては、
・お互いに売らないことで安易に経営が出来る。
・株価が高くなっても配当を低く抑えることで、有利な資金調達が実現する。
・双方の相手は金融機関と企業なので、金融支配による系列化を促進することが出来る。
結局、株主軽視となり、後の“会社は誰のもの”というガバナンス論へ繋がり、外資による“会社は株主のもの”だという流れに繋がっていくのであります。
この日本的資本市場に目をつけたのが、“外資”でありました。いわゆる、「貸し株、借り株」という手法です。この株式の賃借は、法律上でも会計上でも何ら問題はなく、むしろ“賃借は起こらない”という日本国内でのコンセンサス、すなわち“紳士協定”と解されており、日本人ならば想像もつかない禁じ手だった「借りた株を叩き売る」というものでした。(次週に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 22 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、先週の話しの続きをしましょう。
1990年1月3日「ゴルバチョフ暗殺」デマの一発で歯車が逆回りしだしました。
その時から、東証株価はつるべ落しに転落して行くのです。
私はこの時、全社員を集め、「証券取引から全て撤退」との声明を出しました。
非常に暗い影を感じたので、手仕舞いに次ぐ手仕舞いを行ったのです。何故ならば、
これは投機筋のデマによる株価操作での食い逃げだと感じたからです。
もう一つ決定的な手法による株価下落のシナリオが囁かれました。日本の伝統的仕組みを狙った外資による「株価下落のシナリオ」でした。
全ての戦いが終わって振り返ってみると、制度の盲点をついたもので「やられた!」と感じた時には後の祭りで、既に取り返しのつかない状態でした。いわゆる「正常化」という大義名分の名の下で、証券マーケットは「清算」を迫られたのです。異常なマーケットメカニズムの下に二度と戻らぬ「株価」を形成し、これが「バブル」と言われ、その後の崩壊で失われた10年へと繋がって行くのです。「露とおち 露と消えにしわが身かな 難波のことも 夢のまた夢」秀吉の辞世の句の如く、二度と戻らぬ現実へと向かうのでした。
そのシナリオとは何か。安定株主を狙った企業間での「株式の持合い」でした。
株式の持合いは、経営を安定させて、外資・内資からの企業買収を阻止し、グループや双方の連携の強化をはかり、企業集団の形成に加えて、経営陣の安寧に繋がる、という効果があります。これを通じ流動株が少なく、高株価が得られ、資本効率が企業にとって有利といった美酒に酔いしれた日本の企業は、全てこの方式に従ったのでした。(明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 21 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、今日からバブルの崩壊の話しをしましょう。
上り坂より下り坂が早いのは世の常であります。私は1990年のバブル崩壊前夜、あらゆる痛み止めの為の施策が行われました。この施策は過去の経験に照らしたものでした。
例えば、金融引き締めの日銀三重野総裁の登場でした。様々な急ブレーキは平成の“鬼平”とはやされました。マスメディアの報道振りは“正義”の名の下に関与者を切って捨てるものでした。
その内に冷静に判断し語るエコノミスト、政治評論家は皆無だったと思います。全てが悪いのではないのですが、一億総なんとかという日本人の国民性の悪さが出たような気がいたします。良い時はほめ、悪い時はけなす・・・というような。いずれにも勝馬には乗るという嫌な面が多く見られました。
(麻生首相について一言) 私は今、「麻生首相」がとんでもない迷走をしたことによって、資質がないのでは?という疑問を国民が持ってしまうようになったと思います。しかし、これがある日突然、歯車が逆回転し、一気に流れた時で、このまま自民党がなんの手も打てない時、民意は自民党の破滅的惨敗を求めることになるのでしょう。 自浄作用が利かぬ政治に国を委ねる訳にはいかないでしょう。この危険性と1990年から始まったバブルの崩壊がダブってしまうのです。
いつの世にもバブルが発生するのは「国家、法人格、国民の意志のベクトルが一つになった時」、バブルの崩壊は「国家、法人格、国民の意志のベクトルが一つになり、突っ走る行く末に風船の崩壊が待っている。そしてこの風船は針の一穴で起こり、誘発を招く」のです。
針の一穴は1990年において何であったか、「制度の隙間と矛盾、そして噂」である。これには心なき報道が深く関わり、正義と名乗り「裁く」のである。昨今は20年前と酷似しているのではと心配しています。
それでは次回は「針の一穴」を話そうと思います。予告としてその一穴は、
1990年正月報道の「ゴルバチョフ暗殺」のデマ ― メディア、1990年正月明けから仕組まれた「某外資の貸し株操作」― 外資、であります。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 15 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。さて、昨日の話しの続きをしましょう。 1990年、土地価格の急騰を抑える為の土地取引届出制による、国土法の価格抑制策等についてです。
確か200坪以上の土地に対し、特定の地域に対する取引の届出制の為の価格の上限価格が発表されました。しかしながら、届出の土地の取引価格は、土地代金とは別の形で決済して良いということになりました。これは、上物の建築価格に40%強上乗せても良いというものでした。これにより、無理やり建物を建てて清算をすることが横行したのです。この結果、バブル期はエンピツビルが数多く建ったという異常な光景を見ることとなったのです。
地上げ中断のトラブルが多発したのは、地上げの論理により、先ず取りまとめる対象の土地の住人を追い出すことから始まります。デベロッパーの言い訳によると、国土法や融資規制により開発がストップされ、地上げ途上での費用の負担を巡って騒ぎが起き、様々な事件を引き起こすことになった様です。
この様な道筋を経て、金融緩和から土地投機が起こり、そしてバブルが破裂、失われた10年へと歴史が移っていくのでありました。
どうしても一言言わねばならないのが、IT革命によって登記制度にもたらされた影響です。
1990年半ばより始まった和製コンピュータ会社による登記所のIT化によって引き起こしたことは、先に述べた様に簡単に分割できない伝統的な日本の土地制度を根底からひっくり返したことです。
これは、登記システムをIT化することにより、土地所有者の細分化と事務処理を可能にし、これがリート(不動産投資信託)の発展につながったと思うのです。勿論、これだけの理由ではありませんが・・・。
日本のバブルの生成は、米国のサブプライムローンの証券化によるバブルと実は似ていると思われます。日本も米国も、政・官・民の負の連鎖と思われるのです。
唯、日本と米国の圧倒的な違いは、日本は1国であり、国民の個人資産が大きく損なわれた。
これに対し米国は世界を巻き込み、サブプライムローンがノンリコースであったことで、損失を引き受けたのが金融界と金融商品として購入した世界中の国々で被害を蒙ることになるのです。結果的には、最後は納税者たる個人がいずれも負担することで終わることには変わりはありません。この限りにおいて、政・官・民を充分ウォッチし、チェックし、又、読み取る知識を一人一人が学ばねばならないと痛感するのです。
1990年、株の大暴落が始まり、真っ逆さまに墜落していくのである。
大暴落の幕明けは、世界のマーケットへ流された1990年1月3日のゴルバチョフ暗殺のデマから始まりました。
投機筋による陰謀が次から次へと出され、日本の制度や慣習の矛盾を、世界中の外資系投資会社に狙われてしまい、大ばくちの結果、大きな利益を持ち去って行かれました。この時ばかりは本当に悔しかったのであります。 次は堕落の一途をお話しします。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 14 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
地上げの論理と、なぜ道路行政に注目が集まるのか、そして土地を金融商品化した経緯について話しましょう。
それではメカニズムをお話ししたいと思います。きっと“なるほど”ということになります。
まず、容積率はどのように決められるのか。ずばり、面する道路の幅で計算されるのです。
例えば、前面10m・側面10mの場合、1000%(建ペイ率と高さ制限によって、建物の階数が計算されます。)、前面10m・側面5mの場合、500%ということになります。

となります。
これを、A・B・C・Dが共同して1つの土地(1筆)にすると、10m×10m=1000% となり、4者合計で、4000%÷4人=1000% /1人となり、1人あたりの容積率562.5%→1000%になり、土地4分割を1つにまとめると容積率が437.5%アップし、地上げのメリットが計算され、
価値を創造したと言われることになります。つまり、社会貢献だと関わった怪しげな紳士が言うのである。
これは、大雑把で判り易く説明した例なので、専門家から見て異議が唱えられるかも知れませんが、考え方として「こうだ」ということで理解して頂きたいのです。
土地バブルの中心プレイヤーとなったのです。
道路工事の切なる声、これは一言で、拡幅工事や改良工事で前面・側面の道路幅が拡張されれば、単純に容積率が上がり、土地価格がアップする訳で住民の利益を造り、選挙民に喜ばれることで政治家として外せない地元利益誘導策だと、これ以上言うことはないのです。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 08 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
今回は不動産バブルのメカニズムについて語りましょう。
バブルの生成に欠かせないのが土地です。不動産バブルは土地に対する日本人の価値観と仕組みに大いに関係がありますが、1990年をピークとしてバブルについて記憶を頼りに回想してみたいと思います。
この話しも当然の帰結として、充分推測されたものだと思いますが、政・官・民の一体で展開されたものです。
これに便乗した輩が徘徊した時代でもありました。つまり、暗黒の紳士?達が活躍する時代でした。
土地神話から話しは始まります。日本は土地本位制経済とも言われる由縁は、1590年代太閤検地にまで逆上ると思います。それは民に対する税金(年貢)取立ての為の台帳の始まりで、これが登記(所有権)、価格(評価) 決定のメカニズムとなっていったと考えられます。
すなわち、形状毎に、例えば建ペイ率、容積率に細かく取り決められ、この結果、目的別に複数の土地価格が出現することになり、分類としては課税、売買、相続、鑑定、そして路線価という一物、一価ではなく、一物数価が仕立てられることになるのです。
一般的に土地の価格を決める大きな要素は建ペイ率・容積率です。これで建てられる建物の大きさが決まり、この大きさで価格が決まるのです。
さて、この建ペイ率・容積率はどの様に決まるのか。これは地方自治体で、それぞれ立地条件、例えば住宅地、商業地等によって分類され、それぞれに容積率を計算するものです。
それでは、容積率はどの様な方式で決まるのか、これが大変重要なもので、地上げの論理や道路拡幅の政治的テーマに深く結びついて行くのです。そして、これらの権利を顕す登記簿謄本・権利書で全ての土地が語られることで、土地に対する絶対的な信頼が生まれることになるのです。また、保守的な登記所の業務、すなわち1990年代まで全て手作業で業務が行われ土地の流通性を損なわせることにより、ますます神話化し、安心して投機・投資できる対象となり、過剰流動性が土地に向かい、土地騰貴を招くといった、いわゆる土地バブルを形成して行ったのです。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 07 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
さて、昨日の話の続きをしましょう。
日本の株価バブルは、資金がファンドを通じ、特定銘柄に大量に流されたことが一因だが、この原因をつくったのは、日銀の超金融緩和政策とブラックマンデー以降に有効な手を打てなかったこと。信託銀行が暴走し、優良企業が乗せられたこと、これは当時の大蔵省の行政指導と言われた「公的年金の運用が認められる機関は運用実績が5000億円以上であることが望ましい」とする愚策であった。
これにより、各信託銀行は自己の銀行勘定を優良企業に貸付け、自己の信託部門に預り資産として、ファンドトラスト、特金、金銭信託に組み入れ、この資金で証券市場への株式大量買付を行い、株価の急騰を演じたことが大きな原因の一つと思われる。
この話は、余りされないが、現場での動きはこの様なものだった。
信託銀行と企業との間で、リスクと利回り保証で大論争が起こり、いわゆる「握り」というものである。しかし、どうであれ摑まされた者が損をすることが実態で、これにおいて行政や司法がどちらに軍配を上げるかということになる。
サブプライムローンも金融派生商品である限り、掴んだ者が損をするのは明らかで、これ以上の真相解明は将来の歴史の審判に委ねられるのだろう。従って2009年以降、この問題の解決がどの様に推移するかは推理出来ることになる。
日本とアメリカは同じ様な道を辿っていると言えなくはない。いずれも意図的に仕組まれたものではないかと疑惑を持たせることになる。だから推理小説と言われることになる。
フィナンシャルクラブはこのようなテーマを皆さんと自由にお話しする場所と思っているので、皆様方には奮ってご入会して頂きたくお願い申し上げます。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 02 01 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
1990年1月1日 全てのピークが訪れたのは正月であった。しかし、ここに至る道筋には、私にとって栄光への道というものが用意され、これに踊ったとしか言いようのないシナリオがありました。
記憶のみを辿りながら当時の事を思い出すこととするので不安ではありますが、今、世界を席巻しているサブプライムローンが引き起こした危機への道と酷似しているので、やはり伝えておこうと思いました。
それは2つの道がありました。
第一に、信託銀行が持っていた銀行業務と信託業務を両刀に使ったもので、併設の投資顧問会社が舞台でありました。
1980年代後半、信託銀行が普通銀行を抜いて冠たる地位を築いたかの如き錯覚を招いたものでした。即ち、超金融緩和時代の有り余った資金を信託財産(ファンドトラスト、特別金銭信託といわれた)に流す、これを信用力の高い企業に仲介を頼むというものでした。
銀行勘定(貸付)→企業(借入・運用)→信託財産勘定(預り)というカラクリでした。
信託勘定では、特定の銘柄や債券、外貨に投資するもので、この間の資金も貸付け、いわゆる名義貸しのやり取りをし、利回りや元本を約束するというものでした。(いわゆるノンリコースということになるのだが)
この手口はどこかで見た様なものでつい最近聞き馴れたサブプライムローンと酷似してるのではありませんか。
・日本のバブル
(貸付) (預け入れ) (投資)
信託銀行 → 大企業 → ファンドトラスト・特金 → 株式・債券・外貨
・米国サブプライムローン
(貸付) (購入) (売却)
銀行・証券会社 → 借主(低所得層) → 住宅 → 銀行・証券併営の投資会社で証券化して売却
日本のバブルは、証券市場が活況となり、株価が上がる→造られた株高シナリオ。
米国サブプライムローンは、住宅産業が活況となり、景気上昇、国家財政が潤うと共に、税収入がアップする → 造られた住宅産業好況 → 造られた住宅景気シナリオ。
だが、問題はこの税収入が何に使われたのかと考えると計算上はイラク、アフガンの戦費が入り、本来米国の国家債務とも考えられる。世論では金融派生商品のクズを掴まされたと解されている。・・・とも考えてしまうのは、私だけなのでしょうか? (明日に続く・・・)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 01 31 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
サブプライムローンに端を発し100年に一度の大不況と宣伝されている現在の変動と比べても、はるかに激しいものでありました。
当時は、日本のみに限定され日本対米国との対立軸で展開を行ったものであり、全世界を巻き込んだ今回の大不況とは僅か異なるものではないかと考えなければなりません。
少なくとも金融・経済戦争という観点から見て、1990年代のバブルの崩壊には勝ち国と負け国がはっきりしていました。日本は負け国でした。
今回勝利国はいない。歴史を振り返れば過去100年どころか500年のレンジで顧みて検証しないと見透かせないと考えます。今回は金融・経済だけの話ではありません。世界の仕組みの大建て直しになります。政治・経済・民族・宗教、そして資源・環境を巻き込んでいく地政学上の大組替えが始まったと考えれば、歴史的な大展開ともいえるのではないか。
つまり覇権国の交代というべきであろう。
500年で考えると4回目の交代となるわけだが集団と協調が欠けると応仁の乱になってしまうのか。
それでは1990年バブルの話に戻してみよう。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 01 25 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
もう駄目かと覚悟を決めた時ブラックマンデーが発生しました。
これで一命を取り留めた金融マンは少なくありません。
日銀は、プラザ合意以来緩和政策を続け、景気過熱を冷やす為引き締めに転換する方針を止めて超緩和策に入っていくのでした。
これが後のバブルの形成・崩壊へと歴史的な道標の第一歩だったと思います。
私は栄光へまっしぐらに登りつめ、1990年正月を境に地獄へ真っ逆さまに落ちていくのである。
数値を紐解いてみましょう。どの様なものだったかを。


今思うと激しい乱高下でした。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 01 24 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。お話を続けましょう。
全てを振り出しに戻し、いよいよ金融課自由化の中インターバンクの時差を利用した資金運用を積極的に行いました。 金融子会社でもオペレーションの仕組みから金融動向の先読みができ、ことごとく的中したのです。
これにより自己資本がかなり増えることとなります。
金利は上昇局面にありましたが、運用先行で調達金利をオープンにし、ショートポジションで臨みました。
毎日ニューヨークマーケットを気にしながらの睡眠は、4時間程度とれました。我ながらよくやるなと、44歳の若さと馬力で押し通しましたが、乾癬という病気は手強く、東大皮膚科の医局員全員が見学に参加、私は30名の前にさらされることとなりました。
現在は女子医大で治療していますが、主治医の教授は当時の助手であった川島先生です。なんとも不思議な縁のめぐり合わせであります。
この様な金融戦争の真只中、1987年10月に入り、日銀は公定歩合の引き上げと金融引き締めは必至との状況だと言いましたが、ポジションはショート、即ち金利を固定した短期運用を多額に行い(1000億円位か?)調達は変動金利のままで明日は公定歩合引き上げ必至と、今度ばかりは初の黒星と覚悟を決めました。
と、どうでしょうか、ニューヨークマーケットで起こったブラックマンデーの大暴落が襲ったのです。1987年10月19日、一瞬にして金利は下がり、勝ったのです。
運よく連戦連勝となりましたが、このとき資金の取引の怖さを知ったのでした。二度とゲームはしないと誓った。 ニーズに応じたオペレーションが正道であることを知った出来事でした。
今週のお話はここまでですが、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。
つづく

総合法令 北沢栄著
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 01 18 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
さて、先週の話の続きをしましょう。
毎日毎日相場を追い、関係先金融機関に日参がという生活が始まりました。相場修後のチャンスを待ったわけです。人があまり訪れない雨が降る土曜日を狙って何度も訪問し、協力してチャンスを待ちました。振り返ると本当に苦しい日々でした。
その頃のことです。身体の左右対称に発疹が出始め、至る処に白い粉が噴き出て、発疹の中心部は出血まで生ずる悲惨な病気になってしまいました。
早速、東大病院に診察してもらった結果、難病の乾癬というもので、当時日本には6000名の症例があるのみという、難病指定と聞かされ目の前が真っ暗になりました。
この時期に何という不運か、と嘆いたのでした。
しかし、周囲の環境は金融自由化へ向かってまっしぐら、一刻の猶予もなく1986年4月代表取締役に就任、証券取引の含み損は待った甲斐があり全額取戻し、おつりが出る幸運に恵まれました(2億円だったと思います)。しかし、この様な始末は2度としたくない、証券は用心せねばならぬとマーケットの怖さを思い知った出来事でありました。明日に続く・・・
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2009 01 17 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
2009年1月1日、明けましておめでとうございます。
初日出の空はまっ青、一点の曇りもない。嵐の前の静けさなのか、大航海へ出帆に幸あれと、皆さんと日本丸の無事を祈りたいと思います。
さて、24年前の丑年、1985年1月、真に2009年1月と似てよい天気に恵まれた静かな正月であった。
1月1日元旦の日経新聞1面に「三菱商事金融戦略金融子会社設立か・・・」という文面だったと思うが、新しい金融を目指し始動というものだった。
それは役員会で大激論の末、承認を得た国内金融子会社のことであった。
私は慌てて社名登記を確認したものだった。
その直後の4月1日に私は椎間板ヘルニアで入院し、入退院を繰り返すことになるのである。治療は大変厳しいものとなり、前号に書いたとおりだが、どの様に治したかを申し上げると豊島昭和病院、私の友人が院長を勤めている病院で、4月2日緊急入院をお願いした先である。 院長先生と主治医と相談、手術は見送り理学療法で当たろう、その間水泳や他の方法―。
私は大崎にある五味先生の自然良能会に通った。その頃、流行したバランスコントロール運動を行い、腰と首の理療に当たった。
1年の通院と道場通い、又、水泳(プールの中を歩く)により、なんとか社会復帰することができた。
そのような中、1986年4月証券不祥事により市場が大きく崩れた。
同僚が証券取り引きで多額な評価損を抱えることとなった。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任
2009 01 11 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
明けましておめでとうございます。新年もよろしく御願い申し上げます。
2009年、いよいよ大航海時代の幕開けとなりました。荒波が寄せては曳き、曳いては寄せる方向の定まらない時代のうねりを想像しています。
しかし、沖合いは大海原で高い波と深い波が織りなすものの、波乗りができないものではないとも想像しています。
ピンチとチャンスは背中合わせとなり、ヒラリークリントンが演説で述べた「アドベンチャー―大冒険」でもあります。
皆様と共にスクラムを組んで海図と羅針盤を積み込み(勉強)船出しようではありませんか。
私達、フィナンシャルクラブは満足して頂けるコンテンツとステージを提供致します。
是非、ご賛同賜りご参加頂きたいと存じます。
―フィナンシャルクラブの五周年と再出発に際して―
世界は海図のない大航海の時代が五世紀の時を経て、再びやって来ました。
金融恐慌という荒波が世界の国々をのみ込み「黄金の国ジパング」をも襲ってくるのです。正にこの時に、木村剛が創立したフィナンシャルクラブが五周年を迎え、新時代の要請に応え、新しい風を巻起こす為の船出をすることになりました。
新しい船出は、木村剛がフィナンシャルクラブ理事長に就任し、最高顧問に竹中平蔵氏を迎え、一層充実したナレッジを提供します。クラブの運営は三菱商事等で永年に亘り、事業経営に携わってきた入山利彦が代表取締役社長に就任し、取り組むことになりました。更に、会員様専用のサロンと幅広い層の方にご利用いただけるイベントホール(書店併設)を九段下に開設し、真の情報発信と交流の場を提供させて頂くことと致しました。
新体制の下で、フィナンシャルクラブは、お一人お一人に金融のみならず、
歴史と経験に裏打ちされたナレッジを学んで頂き、金融リスクという海図を得特し、
日本の伝統たる「技術と文化」から生まれるものづくりとその結晶である金融を護り、且つ発展させる為の草の根運動を展開したいと考えております。
自主独立こそが危機を打破し、閉塞感を払拭し大航海時代を大冒険時代と捉え、大いにチャレンジしチャンスを掴もうではありませんか。
皆様のご理解とご賛同を頂きたく、ご挨拶方々、お願い申し上げる次第でございます。
2009 01 10 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
1986年4月1日、忘れ得ぬ大病が襲ってきました。結局3ヶ月入院、9ヶ月間のリハビリ、糖尿病により痛み止めを脊髄に打つことができず、血糖値が下がるまで痛みに耐え、眠れぬ夜は激痛を抑えるため効き目は4時間しか持たなかったのです。モルヒネを打つことになりました。1週間続くモルヒネでの処置は非常に厳しいものでございました。しかも3ヶ月の間に入退院を繰り返すことになったのです。
新会社の立ち上げはしたものの、周囲に迷惑をかけ会社人生を棒に振るところまで至ってしまう出来事でした。
無理を重ねたのが原因と思いながらも周囲に同情を求めましたが、スタートの経緯もあり(猛反対を受けた)冷たい視線を受け、自分の軽率さを悔やみましたが遅かったと気がつき、本当に後悔した頃でした。43歳で「これから」という時でもあり、健康は自ら得られる唯一のご褒美である勲章であると今でも強く思います。
然しながら、仕事は痛烈なものであり椎間板ヘルニアの他、後縦靱帯骨化症となり首に危険が点滅しました。
牽引治療は首と腰にわたりました。これはまるでわが人生が、首を引っ張られ、足を引っ張られ、の様であると苦笑してしまいます。
個室にて療養治療を行いましたが、当時はまだ携帯電話がなく、廊下に置かれていたピンク色の公衆電話を病室に持ち込み、10円玉を大量に抱え受話器を握り締めて仕事の指示を出していました。10円玉が足りなくなると公衆電話の料金箱を開けてもらい、両替してもらってはまた電話をかけるという連続。気が狂ったようなワークホリカーで鬼の如くでありました。
今週のお話はここまでですが、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。(つづく)
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 21 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
今週はいよいよバブル崩芽期にスタートした金融子会社設立前夜での出来事をお話いたしましょう。
1985年暮れも押し迫った頃、常務会で2年間に亘る大激論の末、2000億円の枠で新しい金融を目指してノンバンクをスタートすることとなりました。事前準備を1年ほどかけて行い、この事業は世の中のニーズに応えるもので成功すること間違いないと確信していました。
1985年、世は正に不況プラザ合意で猛烈な円高になり、1987年のブラックマンデーで米国発の株価暴落、暗雲立ち込める霧の中のスタートでした。その時は、後にバブルに突入するとは夢にも思わずにいました。
事前準備の疲れと資金の目処がついた安心感から4月1日年度初めという日に、大雪の中、不覚にも雪道に転倒というアクシデントに見舞われ、とんでもないことになってしまったのです。
持病のひとつであった腰痛が転倒で悪化し、椎間板ヘルニアになりました。その後、1年を棒に振ることになるのでした。
1984年の暮は悲しい出来事が続き、左遷も経験することになりますが、実はとんでもないエピソードがあり、その後の会社人生を大きく左右するものでもありました。1985年正月、前部署の上司から1本の電話が入りました。「財務部へすぐ戻ってくれ。どうしても金融子会社を立ち上げたい、国内金融を大改革していきたい。君にやってもらいたい」という内容でした。新部署で1ヶ月しか経っていないので「いくらなんでも1ヶ月で元に戻るとは・・・」と申し上げましたが、「年をまたいでるから足掛け2年だ!」と怒鳴られました。
「それもそうだ」と粋に感じ、どうしても成功させねばと思い「受けさせていただきます。1年は現部署で勤務させて下さい。1985年12月に移動でもよろしいでしょうか」と答え、話が決まり1985年財務部へまたもや出戻り、転勤することとなりました。
組織の三菱といわれるが、実際には人の三菱なのかもしれません。
その後、病気を克服しながら前進あるのみの会社人生となったのはこのような背景があったからだと思います。
明日につづく・・・

●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 20 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
麻生総理の発言で病に関し、「医師は常識欠落」「私のほうが税金は払っている、たらたら飲んで、食べて、何もしない人の金を何で私が払うんだ」と報道されています。
私は最終章で「人生のバランスシート」を書こうと考えていましたが、最近の麻生総理の発言で、病で苦しみながらも生き抜き働き抜いた弱者(麻生総理は強者ということだろう)の意見を今、申し述べねばならないと思いました。
私は闘病の都度、素晴らしい主治医に恵まれたこともあり、決して諦めることなく治療と向き合い病を治して頂きました。大変お医者様を尊敬し、信じて命を預けた賜物であると思っております。
また、健康で丈夫な方をうらやましくも思いました。自分も「そうであったらなあ」と考えることも度々でしたが、その方達に支えられ治療し、また保険を使わせて頂いていることは本当に、有難いことだと感謝していました。
人生の最終章で死と向き合った時、人生のバランスで病とはなにか、ひとつは借金(欠損)かも知れませんが、人間界では誰かが病を引き受けて健康な方に頑張って頂くのではないかと思います。
これにより、借金ではなく資産に替えることができる。感謝することこそが逆転の発想になるのではないでしょうか。
それに比べ、麻生総理の今回の発言は極めて悲しくなるもので、「嫌な思いをしている人がいるならば・・・・」との発言も、麻生総理は全く弱者を眼中にしていないことの表れと感じさせるもので、しかも弱者を仮定の話ととられる様な発言は国を治める政治家としての資質が問われるものであります。これが原因のひとつとなり内閣支持率が激減したとも言われています。
この様な麻生氏を総理大臣として生活しなければならない国民は不幸だと思いたくもなってしまう。だからこそ、総理を選ぶ政治家を国民は慎重に選ばねばならない。
実業界でよく聞く話に例えれば、不祥事などで急遽ワンポイントリリーフで就任した社長が(この場合、傍流の部門から選出されることが多い)そのまま居座ることがあり、さらに業績の悪化を招き株価(支持率)が低下することに似ているのではないでしょうか。
株主総会(総選挙)を乗り切る目処もなく、交代する人材が手を上げることもなく、取締役(閣僚・国会議員)の責任が問われるこの事態に
監査役(マスコミ)は何をしていたのかということになります。
私が大変心配をしているのは、実業界では株主代表訴訟というものがあり、これにより取締役(閣僚・国会議員)解任、あるいは取締役定数半減(閣僚・国会議員定数半減)になりはしないかということです。
今週のお話はここまでですが、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。
つづく
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 14 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
さて、今週は病気の話に戻りましょう。
1984年秋、我が子の病気が再発し、海外転勤内示を辞退することになります。それは財経グループとしての転勤拒否と解釈されたのか、代わりに赴任する先輩の部署に即日配置換えとなり、全く違う仕事に取り組むこととなりました。正直に申し上げて二重に落胆した日々でした。
折しも、同窓同期の職場の親友が癌で急逝(42歳厄年でした)、続いて母親も失意の内に死去することとなりました。
この時ばかりは心身共に衰弱し1985年、肺癌の疑いと糖尿病の悪化により、酒と煙草を断つことに決めました。
この様な背景の中、転出先の部署で国内金融の在り方を研究し、1986年初三菱商事株式会社の金融子会社「エム・シー・ファイナンス株式会社」を設立。ノンバンクの雄を目指してスタートすることとなりました。
その頃、木村理事長は日本銀行に入行し、企業の営業局企業係で景気動向調査に携わっていました。初対面より気脈を通じ将来の大器として花が開くと見立てておりましたが、気がつけば22年の永きに亘り親交を深めてきました。
木村理事長の力を借りて様々な難局、逆境を切り抜けてきました。その22年の親交が礎となり、現在のフィナンシャルクラブへと連なって行くのです。
この間の詳細はいずれお話いたしましょう。
明日に続く・・・

木村氏は自著で、入山氏を「カリスマ・トラブルシューター」と称している。
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 13 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
さて、昨日の話の続きをしましょう。
昭和20年から昭和57年、私が3歳から40歳まで、私は父の姿を通し、この理不尽な出来事や、日本経済の浮沈で起こった家業の倒産を3回経験し、国家と危機の何たるかを学びました。
戦後のドラマはこの様なものには比べ物にはならない無限の苦しみを日本国民は甘受してきた末に遂得た繁栄であることを忘れてはならないと思います。
私の中ではこの出来事を通じ、現在・過去・将来に亘り深く教訓として残っています。
即ち、
●法律をつくる政治家がいかに重要なものか。(良い政治家を選ぶ)
●国の破綻は、国民の犠牲の上でのみ防げる。(国は国民を犠牲にする。)
●国民は、国民である前に、自主独立でなければならない。(自己責任なのだ。)
というのが原点になっていると考えます。
後日談になりますが、1982年最高裁判決を受け入れた後、弁護をお世話して頂いた「法律扶助協会」から手紙が来ました。

「時間がかかってもいくらでも良いから、弁護士費用全額を支払って下さい。」というものであった。
私は国に貸した金を返せという以上、全額支払うこととし、苦しい家計から女房に隠して44回3年半かけて完済した。
「私は国とは違うんです」との思いで懸命に返した。支払いが終わった1993年6月は、奇しくも父の13回忌の1ヶ月前でした。思い起こせば中国からの引揚者の方々へ支援金として在外公館が吉田外務大臣の訓電に基づき集めた資金は1億数千万とも言われています。
この資金によりお帰りになった邦人の方々は30万人にも上るというデータもあります。国のためにお役に立てればという思いで資金を提供した方々の尊い志を無視して1952年には法律が可決され、これより在外公館が集めた1億数千万円の内、先ほど申し上げたとおり亡き父の場合1,200万円が一人50,000円で切り捨てられる残念な結果になってしまったのです。
当時の総理大臣の訓電の発信者は吉田茂元外務大臣でありました。その後、最高裁まで争った亡父は判決を聞くこともなく、国から感謝されることもなく無念の思いでこの世を去ったのです。
このようなことが二度と起こらぬよう、我々国民は政治を充分に監視する義務があるように思います。法治国家としての我国を守っていかねばならない。それが国民の責務である。最近、法治国家にあるまじき、事例を散見されるのは残念なことであります。とはいえども、この国は優秀な人材も多く同じ事を繰り返さない策を十分に練れるとも期待しています。
偶々、太平洋戦争開戦の日にあたり一人でも多くの方にリスクヘッジの大切さをご理解頂くために、お伝えしたい事のひとつとして書かせてもらいました。
フィナンシャルクラブの運営の責任者として、この一連の出来事の教訓を胸に、国の在り方、個人の在り方、そして金融の在り方の普及に尽くしたい、強くそう思います。
話を戻しましょう。1984年、又もや、新たなる闘病生活が始まります。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 07 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブとは、木村剛が理事長となり金融・経済のナレッジ(木村ノートと私は呼んでおり、知りたくなるような情報が満載です。勉強すればお得な話が直に聞けます)を提供し、私がこれを草の根運動として広く普及させる役割を担うものです。
さて先週お話した「アメーバ赤痢」を始め、生きるか死ぬかの10年間(昭和48年~58年)を過ごした訳ですが、私だけではなく我が子の病気との闘いでもありました。仕事の方では、昭和48年の第一次オイルショックから激動の時代が続いておりました。
この10年間、会社の浮沈をかけて荒波の中、必要な金融を確保する為に必死の思いで働きました。
必死に働いた事と、病気が次から次へと襲ってきた事とは無縁ではありません。私が1942年9月3日に生まれてから1973年までの30年間の忘れられない物語があるのですが、この話はいずれ別の編で語ることといたしましょう。さて、本題に入ります。亡き父が、国を相手に昭和20年9月の貸し金を返還してもらう訴訟を起こし、昭和57年最高裁で敗訴となりました。私は相続人として訴訟の行く末を考えた結果、判決を受け止め敗れました。
この事例は、Financial Japan(2006年10月号)に掲載されています。
あらましは、昭和20年9月当時の外務大臣吉田茂氏(現麻生総理の祖父にあたる)の訓電に基づき中国の在外公館が、中日在留邦人の救済のために企業に資金提出を呼びかけたことに始まります。亡父は工場等財産を中国人に売却し当時のお金で約1,200万円の預金がありましたが、全額を青島総領事に提供、借用書を貰って1947年に帰国しました。
故郷の市を通じ国に返還請求をしましたが「債務不存在」として最高裁判決により却下されたのであります。
判決は、
●在外公館等の債務は1952年の法律により50,000円で打ち切る。
●吉田茂外務大臣には借用権限が無く、閣議決定されていない。
つまり、国は借りていないのであるというものでした。
明日につづく・・・
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 12 06 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
さて、昨日の話の続きをしましょう。
アメーバ赤痢は水が原因であったが過酷なメキシコ政府との話し合いによる極度の緊張とストレスから体力が弱ったためでした。5日間で実に10キロの減量(脱水)となり、体重は63キロになりました。
当時の中南米は金融危機に見舞われ、世界中どこからでも外資を手に入れたいという、いわゆる破綻状態にありました。
会社としては「ピンチはチャンス」と、なんとか支援の手を考えたいということで将来性の高いメキシコにミッションを派遣し、私も随員として参加することとなり、メキシコシティに入り早速仕事にとりかかりました。
好きな酒も飲めず、テキーラとレモンと塩のカクテルを横目にストイックに仕事に励んだ結果、アメーバ赤痢でダウンしたのです。
一命を取り止めたことで幸いとも周りに言われたが、メキシコでの療養を余儀なくさせられ、「キニーネ」と「バクチウム」という投薬治療が続きます。
バクチウムを飲んだ結果か判らぬが、両脇腹が真っ黒になり明らかに肝臓に障害がある様に思われました。日本ではメキシコの風土病の様なものなので治療は難しかったのです。
実は、今でもアメーバ菌が肝臓に住んでいるのではないかと危惧しています。なぜならば、脳髄へ入ってしまったら命がないというやっかいな種類であるからです。
メキシコではテキーラとレモンと塩、そして昼寝という、国民性あふれる習慣はこの土地で健康に生きる為に必要なものではないか。「郷に入れば郷に従え」という格言は健康の為の真理だと思っています。
唯一、良かったことといえば、血糖値が劇的に下がり糖尿病が一時的に改善されたということです。
これは結果的に「体重減」と「食生活の改善」によるもので糖尿病にはこの二つが絶対に必要だと学びました。
この続きはまた別の機会にお話しましょう。ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 30 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
先週、神経痛のお話をしましたが、自分の病気もさることながら、子供の病気は10年もの歳月をかけ気長に取り組むこととなりました。心配事が尽きなかったこの10年間は、海外転勤を拒み続けざるを得なかった訳ですが、海外転勤の話が持ち上がる毎に社運をかける様な事態が起こり、その度に対応に専念せざるをえないことが多くなりました。
人生思うに任せずとはよく言ったもので、37歳には糖尿病が発症。原因は両親から受け継いだDNA、仕事上の不摂生続きといくつも考えられ、数値はどんどん悪化していきました。幸い、カロリー制限に気を配ったおかげで投薬には至らずに済みました。
その時は糖尿病が一生の病になるとは夢にも思ってもいなかった訳です。
それにしても仕事のストレスとは相当なもので、会社の全資産を扱う者としては眠れぬ夜も多々あり、眠っても資金繰りの夢を見る程でした。
この頃、腰の痛みに悩まされます。ただの腰痛だと思っていたのが実は「椎間板ヘルニア」であり、これもまた一生付き合う病気となってしまいました。
腰痛を甘く見、整骨院通いで治すという対症療法で完治せずに放置したことが悔やまれてなりません。当時は、腰に激痛が走ると煙草を吸い痛みを紛らわせていました。煙草は痛みを麻痺させる様な怖いものだと思いましたが、40歳で断固禁煙するまで日に3箱(60本)を吸う生活でした。
さて、仕事の方では1973年より1993年まで財務一筋、21年間の記録をつくることになります。この21年間の思いをもって2008年7月より、フィナンシャルクラブの社長として引き継ぐことになるのですが、ここで1983年に起きたとんでもない事件をお話します。
金融危機の真只中の中南米(ペルー・コロンビア・ブラジル・アルゼンチン)に、援助の手を考えるという大きなミッションを背負い、「いざ」という矢先、アメーバ赤痢にかかってしまったのです。メキシコを起点に中南米経由、米国ニューヨークへの行程の第一日目という大事な時にダウンしてしまったのです。
明日につづく・・・

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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 29 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブとは、木村剛が理事長となり金融・経済のナレッジ(木村ノートと私は呼んでおり、知りたくなるような情報が満載です。勉強すればお得な話が直に聞けます)を提供し、私がこれを草の根運動として広く普及させる役割を担うものです。
今日は、大学卒業と同時に会社に就職し経理部に配属となった話からです。経理部は、自分から希望した部署ですが、周りの人達からは100%営業マン向きと思われていたのでみんな驚いたようでした。私が経理を希望した理由は、将来は田舎へ帰り父の仕事を継ごうと思っていたからです。そのために経営者に必要なスキルを学びたいという思いからです。
しかし、家業に陰りがでて結局倒産することとなり、私は志を変えてサラリーマン人生を邁進することとなりました。
本来は営業マン向きの人間ですから、苦手な経理の職場で過ごすことは、“ストレス”とともに生きることに繋がるのです。
自分では、厭わず一所懸命仕事をしてきましたが、やはり大きな壁となる「病」に負けることとなりました。

まず発病したのが神経痛です。左腕が痺れ本格的に病との闘いの日々を迎えることになりました。
大きな原因として一つは私の仕事の部署が転々と変わったことで、ストレスが重なったこと、もう一つは当時子供の病気治療の為に奈良へ通っていたのですが、その移動中の新幹線内の冷房にあたっていたことと考えられます。
結婚後、子供にも恵まれましたが、好事魔多しで私が病にかかっただけでなく子供も難病にかかり四方八方手を尽くし西洋医学・東洋医学を問わず温泉・神社仏閣・針治療に頼ることになるのです。
左腕の痺れは結構長引きましたが、17代続く奈良の針治療のおかげで良くなりました。
この続きはまた来週にお話しますがもっとつらい病が続くことをご覚悟下さいませ。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 23 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブとは、木村剛が理事長となり金融・経済のナレッジ(木村ノートと私は呼んでおり、知りたくなるような情報が満載です。勉強すればお得な話が直に聞けます)を提供し、私がこれを草の根運動として広く普及させる役割を担うものです。
さて、今回は中学校での大転換からお話しましょう。中学校で自分の過去を語ることもなく新たな気分で、課外授業のバレーボールを選んだ理由は、すぐにレギュラーになれそうなスポーツだったからです。
当時、バレーボールのスポーツ人口はとても少なかったのです。虚弱体質だった私でしたが、バレーボールのお陰で体力がかなりつきました。身長は3年間で20センチ伸び172センチになり、体重は68キロ、そして中学3年生の時には健康優良生徒として市で一位として表彰されるまでになりました。
奇跡的にスポーツによって虚弱児から健康優良児へと生まれ変わり、中学校ではバレーボール部キャプテン、生徒会長まで務めることとなりました。
その後、まるで調子に乗ってしまったかのように抜群の体力と気力で数々の困難を乗り切ることとなります。今振り返ると小学生・中学生の頃の経験が精神力・体力を鍛え、意志の強さや何事にも乗り越えようとする力がつくベースになっている気がします。
今は減価償却で生活しています。精神力・体力を鍛えることはビジネスにおいてもプライベートにおいても役立つことなのでいつからでも遅いことはないと私は思います。
高校、大学へ進学し、その間は何の不自由もなく順調にいき、好きなバレーボールは大学一年で辞め、その後大学の自治会運動に転じました。
ところが大学4年の夏(東京オリンピックの年)に大病を患いました。体力があったせいか風邪を軽くみてしまった結果、脳膜炎をおこしてしまいました。風邪の菌が腸から脊髄へ、そして脳へと入ってしまい42度の高熱が一週間続きました。死線をさまよい意識不明、仲間の呼びかけにかすかに応える程度でしたが一命をとりとめました。
この経験で精神力・体力はさらに鍛えられましたが、内臓だけは鍛えられないと悟りました。バランスがいかに大切かと・・・。この時ばかりは「しまった!」と深く反省しました。脳膜炎になったことで楽しいはずである大学4年の年をを棒に振ってしまい、最後はあまり楽しい思い出のない大学生活となってしまいました。
この件で健康が大事ということを身体で覚えたはずでしたが、その後も同じ間違いを何度も繰り返す人生となり、現在に至っております。
人生において大切なひとつは「バランス」なのかもしれません。
つづきは、明日お話しいたしましょう。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
直筆入山メモ
●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 22 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
さて今回の話は・・・
話は昭和22年、終戦直後より始まります。私は虚弱児で病弱でした。幼児期にあまり外で遊んだ記憶がありません。同時に家業の関係で(いずれお話します)子供らしい遊びができませんでした。
小学校入学は終戦直後の為、先生方の中に帝国軍人さんが多数おられました。その中の一人が熊沢先生。
教育とは程遠い小学校生活でした。軍事教練と堂々と名乗り、体育祭の練習と称して校庭を縦列隊の行進を何度も何度もさせられたり(死の行進)、廊下の雑巾がけを甲板掃除と称して厳しい指導を受けました。また先生は竹刀を持ち、当然の様に体罰が行われていました。
とても虚弱児が学ぶ環境ではなく、私は自衛本能で登校拒否になりました。朝になると37度を超える熱が出る、夕方になると熱が下がるということを繰り返した日々。
小学校4年生では年間150日ぐらい休むことになり、また背骨が湾曲している為、体全体のバランスを崩した辛い思い出があります。
以後病気を治し、また病気になることの繰り返しで9歳から60年近くの病歴となった次第です。
私と同じように苦しんでいる子供たちが今もいます。(今の時代いじめは友達が多いようだが、昔は学校の先生がいじめていたとの記憶が残っています)
その頃は自分の力ではなんともならないものは、精神力で自分を変えていくしかないと感じました。当時は一生懸命本を読んだり、叔母が読んでくれる物語に耳を傾けたり、独学で勉強をしていました。登校拒否とはいえ進級の為に試験には出なくてはいけません。独学が効を奏したのか成績はトップでした。学校に来ないのに頭がいいと先生は面白くない様でいじめを受けました。そのいじめに耐えに耐えて5年生に進級し、担任が変わると今までの登校拒否が驚くほど消えてしまいました。
今このようないじめにあっている子供たちにこう言いたいのです。とにかく前向きに立向かっていきましょう。自分のできることを見出していこうと。
自分ができることはベストを尽くし、できないことは周りの人にサポートしてもらうことが大切な事だと考えます。様々な事に打ち勝つ為にはみんなと比べて「負けない」というものをつくっていく以外ないと思います。その当時の私には勉強をするしかなかったのです。自分で努力し、みんなの場に出てやっていく勇気をだす以外はなかった訳です。
自慢話になってしまいますが、勉強ができ運動神経が抜群でしたので、病気がちながら人気者でした。走らせれば足は速い、学業成績もトップでした。突如として現われて良い成績を収めていく、摩訶不思議な生徒でした。
小学校6年一学期の時に友人達が生徒会長に推薦、本人が知らない間に立候補。そして本人不在のまま生徒会会長に当選してしまいました。こうしてかろうじて小学校卒業することとなります。
その時に「いじめの先生」から「よく卒業できたな」と言われたことは忘れられませんでした。
中学校に入り生活は一変します。私の中で大変な大転換が起こりました。そのきっかけはスポーツでした。中学校で自分の過去を語ることもなく新たな気分で、課外授業のバレーボールを選びました。すぐにレギュラーになれそうなスポーツだからという理由です。
このお話は、次週にしましょう。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく

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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 16 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
こんにちは。フィナンシャルクラブ株式会社の入山です。
フィナンシャルクラブはライブでインタラクティブな情報を提供しこれを実現するものであります。
さて今回の話は・・・
病気―。このことで一番先に話したいのは、「どのように世の中を見ていくか」という「人生観」についてなのです。一つ目は「病」、二つ目は「逆境」。そして三つ目は「失敗」のことです。病気にかかる、罪をかぶる、左遷される、この3つがその人の人生を決めるといっても過言ではありません。
今回は病気編を徒然なるままに書いていきたいと思います。
私自身の人生を決めてきたのは、「病気」でした。
様々な病気におそわれ、死線をさまよった結果「あきらめない」、そして「生きていること自体に意味がある」ということを悟りました。生きている意味がない人は一人もいません。私自身、大病を患いながらも今まで生き残っている訳なのでその都度、生きているということに「感謝」をしてきました。「あきらめない」「生きていることに意味がある」「感謝」、大事なことはその3つなのです。
私の病歴は大変多い。個人としてはプライバシーをご説明することになるので甚だ忸怩たる思いがあります。然し、きっと皆様にお役に立つと思いお話しすることにしました。
この種の話しはどこにいけば治るという話が多いのですが、どのようなことをして治したかというプロセスを話していきたいと思っております。
実は履歴書のなかに病歴を載せてります。このような人はいないと言われますが、なぜこのような形で公表しているのかには理由があります。
病院にいくと必ず初診で病歴を聞かれます。概して病気は難しい漢字が多いので覚えにくい。診療に役に立つレジュメをつくったことが動機です。
2つ目は、京都に本社のあるタクシー会社から依頼されてドライバーさん向けに「病気と健康」をテーマに話をしました。病気治療の為に訪れていた京都で、病を治すという信念を持ち京都通いをしていたことがご縁でした。

わが闘病記は西洋医学のほかに東洋医学、はたまた人知を超えたもの(超能力ともいえる)の3本立てです。
さて年代を遡り、その間起ったことをお話していきたいと思います。
ただ、この話の深淵はフィナンシャルクラブでお話ししたいと思っております。 つづく
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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 15 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
もうこれで終わりという大病や左遷を経験、莫大な損失、片や莫大な利益を幾重にも重ねながら、毀誉褒貶を続けてきました。特にバブル期1985-1993年は天国と地獄を経験、筆舌に尽くせない苦しみを味わいました。
然しながら、自らの手で莫大な損失を処理し1999年より監査役・執行役員・監査担当役員顧問を経てこの6月に任期を全うしました。
サラリーマンとしては平凡でもない、いわゆる日本の金融史の一人の証言者であると思います。
折りしもこの7月に20年以上に亘る親交のある木村理事長より「フィナンシャルクラブを老若男女問わず幅広く広めていきたい」と社長就任要請がありました。
私は「過去に口を拭ってさも平和で幸せそうな人生を送り、これで人生のファイルをクローズして良いのか?」と自問自答の末、「本当のことと失敗を語り後世の為に尽くそう」と考えるに至りました。
もはや、官や民の企業という側ではなく、一人一人の個人の方々の為に働き、一人でも多くの方の賛同と入会を得、皆さんと一緒にこの日本の有り様を変えていきたいと思います。
変化に対応するのではなく、変化を起こそうではありませんか。
日本を変えたい。
ご清聴ありがとうございました。
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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。
1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。
2008 11 09 [24. 入山メモ] | 固定リンク | トラックバック
海図のない大航海時代が500年の時を経て再びやってきました。
100年どころではない、黄金の国ジパングが狙われていると言っても過言ではありません。
今私が社長を引き受けたのは歴史的に偶然と思っていません。
私は、この危機を打破し国民の閉塞感を変えたいのです。この為に一人一人が金融リスクという海図を学び、リスクヘッジとマネージメントをマスターし、自立する以外道はないと考えております。
フィナンシャルクラブは木村剛が理事長となり金融・経済のナレッジ(木村ノートと私は呼んでおり、知りたくなるような情報が満載です。とっておきの話が直に聞けます)を提供し、私がこれを草の根運動として広く普及させる役割を担うということです。
金融というものの捉え方が正確ではありません。
我が国は「技術と文化」の国で匠の世界によるものづくり、この結晶が富であり、これが金融の源である訳です。ものづくりと金融は表裏一体で因果の関係にあります。
この原点をしっかり捉え一人一人が歴史と経験を学び、自主独立の気概をもって国を作り替えないといけません。

私はこれを語りかけたいのです。
私がこの仕事を引き受けた思いを申し上げます。
1942年生まれの66歳です。1965年三菱商事に入社、一貫して財務経理畑でこの6月に43年勤め上げ退職いたしました。
生まれてこの方、私の立場での100年に一度の出来事は何回も経験しました。 つづく
語り部の入山氏
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●入山利彦 プロフィール
1942年9月3日生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、1965年三菱商事株式会社入社。1986年金融子会社のエム・シー・ファイナンス代表取締役に就任し、バブル期に9000億円まで運用したが、1993年3月決算期で三菱商事は、財テク失敗により680億円の特別損失を計上し、エム・シー・ファイナンス代表取締役社長として280億円を肩代わりする。
1998年~2003年に三菱商事のアドバイザーであったKFi (現:フィナンシャル)代表取締役社長、木村剛による理論を取り入れ実践し、荒波を乗り越える。
2008年6月30日まで三菱商事株式会社顧問として就任していた事に、失われた10年の謎の答えを見出す。数々の会社役員に兼任し、なお現在も抜群な発想力と決断力を持ち、常に戦略的に行動し各分野で手腕を振っている。
激動を繰り返す歴史で得た経験で最も伝えいきたいことはリスクマネージメントの大切さであると確信し、日本の金融について発展的なことがしたいという強い思いから、フィナンシャルクラブ株式会社代表取締役社長に就任。













































