2006.06.08

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(132)

 利洋の言葉に日未子は頷いた。今日ほど利洋を汗臭く感じたことはない。今まで隠れていた利洋が現れた
という思いがした。

 「僕のところにミズナミ証券の興産側の役員が来て、サイバーネットワーク社の引き受けの件を興産側スタッフに任せてほしい、と頼みに来ると仮定するだろう。僕は、谷川君を同席させておく。僕は、役員に返事を渋るわけだ。というのは、あの会社は元々は大日銀行の取引先だ。既にミズナミ証券では大日側のスタッフで準備が進行しているに違いない。今さらそれを変えるのは至難の技だ。僕が役員からの要請に困っている姿谷川君は見ている。彼は、僕に命じられなくても僕の意図を慮って、それを実行に移す。薮内君が大日側の立場に立った取引構想をプランニングする。ところが谷川君は、それをことごとく興産側にひっくり返しているということだ。その争いが二
人の間で行われているのだろうね」
 日未子は、スフレをスプーンに掬って食べた。口の中に上品な甘さがふんわりと溶け出した。この甘さのお陰でようやく利洋の言葉の辛さ、あるいは残酷さと調和がとれるような気がした。
 「僕は、谷川君に結果しか期待していないから、彼は何も分からない薮内君に苛立っているのだろうね」
 利洋は、僅かに声に出して笑った。
 「他人をコントロールするだけで自分の手を汚さないなんて、冷たくて卑怯な気がする」
 日未子は言った。
 「それが仕事で結果を出す最良の方法だとすると、僕は躊躇なくそれを採用する冷たさを持っていると思っている。嫌いになった?」
 利洋が微笑した。
 「少しね…」
 日未子は呟いた。今までと違う、心の中に悪魔めいたものを同居させた利洋に、困惑しながらも一方で魅力を感じ始めている自分に驚いていた。
 「そうか、嫌われたか」
 利洋は、声に出して笑った。そして急に真面目な顔で、
 「今夜はいいんだろう? 部屋を予約してあるからね」
 とと言い、日未子を見つめた。
 日未子は、利洋の視線の強さに抵抗出来ずに頷いた。
 利洋のピアノのチョコレートケーキは、形を全く残していなかった。

【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(読者の皆様へ)
本日にて、小説「ニッポン・ウーマン」の掲載を終了させていただきます。
これまで、読者の皆様には、ご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。
小説「ニッポン・ウーマン」は月刊誌「フィナンシャル ジャパン」で連載中です。
続きは、現在発売中の月刊誌「フィナンシャル ジャパン」7月号でお楽しみいただけますようお願い申し上げます。

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2006.06.07

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(131)

 「具体的には?」

 「谷川君がサイバーネットワーク社の書類を無視するのは、僕が彼をコントロールしているからだろうね」
 日未子は、ますます分からなくなってきた。利洋は何を言おうとしているのだろうか。
 「ミズナミ証券の興産側の役員やスタッフは、大日銀行の取引先の新規公開案件を自分たちで引き受けて、出来るだけ大日側の力を削いでいきたいと考えているって言ったよね。そのためにはどうするか、考えたわけだ。それは合併、すなわち一つになったという建前を押し通して、興産側に味方になってくれる大日側の人間を一人でも増やすことが一番だと気づいた。彼の手で案件を興産側に振り向けてもらえばいいということだ。そうすると僕たちは手を汚すことはない。大日側の問題だからね」
 日未子は、ようやく分かりかけてきた。
 「日未子は、僕の愛する人だからこんな話をするけど、他では決してしないよ。僕を分かってほしいだけだからね」

【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は4月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」6月号に掲載されています。

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2006.06.06

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(130)

 「ますます分からないわ」

 「仕事には冷たさが必要なのさ。なぜなら結果しか求められないことが多いから。特に役員レベルになるとそうさ。使われている時代は、努力などのプロセスも評価すべきだけれど、上になるにつれて結果しか求められなくなる。嫌な時代さ」
 利洋は、ピアノの脚をかたどったチョコレートを音を立てて折った。そして口に入れた。
 「これ、なかなかいける」
 利洋は満足そうに微笑んだ。
 「あまり謎めいたことを言わないで」
 日未子は、勘弁してほしいというような顔で利洋を見つめた。
 「日未子は、いつも迷っているようで、それでいて真っ直ぐだから、僕のような迷いばかりの人間の気持ちを推し量るのが難しいのかな」
 「意地悪ね」
 「そうじゃないさ。日未子には優しさ、仕事には冷たさ、これを使い分けているだけだよ」


【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.06.02

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(129)

 「それは嫌よ」

 日未子は強く言った。
 利洋は、納得したように微笑んで、「そうだろう」と言い、ケーキを食べた。グランドピアノの鍵盤が無くなった。
 「どういうこと?」
 「優しさと冷たさの違いさ」
 「分からないわ」
 「分からなければいいよ」
 「教えて…」
 「考えればいいよ。本当の優しさと冷たさをね。僕はここでは、すなわち日未子の前では優しさを発揮したつもりだった。日未子からは冷たいと言われたけれどね。だけど先ほど訊かれた具体的な画策については冷たさを発揮している。仕事だからね」


【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.06.01

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(128)

 「壊すのがもったいないね」

 利洋は、そう言いながらフォークでグランドピアノを半分に切った。
 あまりのあっさりとした利洋の行動に、日未子は少し驚いた。
 「そのピアノ、もう少し見ていたかったな」
 日未子は惜しむように言った。
 「どうせ食べなくてはいけないものだから、名残を惜しむ前に僕の手で壊したのさ。なんだか情が移るようなケーキだったからね」
 「案外、冷たいのね」
 日未子の言葉に利洋が微笑んだ。
 「冷たいと言うのは心外だな。これは優しさだよ。もしこのピアノのチョコレートケーキをね…」
 利洋は、フォークでケーキを刺した。
 「日未子に壊させたとしたら、どうする?」

【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.05.31

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(127)

「デザートをお持ちしました」
鴨田が二種類のデザート・スイーツを選べと言う。

 「きな臭い話になってしまったから、デザートでも食べて口直しをしよう」
 利洋もデザートには目がないのか、顔が自然とほころんでいる。
 「私はグランマルニエのびっくりスフレをいただくわ」
 「それじゃあ僕は、ピアノのデザートにするよ」
 鴨田がそれぞれのデザートを運んで来た。
 「すごい。それ、本物のピアノみたい」
 日未子は自分のデザートのことを忘れて、利洋のデザートに見とれてしまった。
 皿にソースで五線譜が描かれ、その横にチョコレート製のグランドピアノが置かれている。


【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.05.30

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(126)

 「利洋、どうしてなの? もう一つの銀行、一つの証券会社ではないの? 私にはとてもくだらないことに思えるわ」

 男性というのはどうしてこうも派閥争いに情熱を傾けることが出来るのだろう。会社が戦いの場所であり、まだまだ男性優位だからだろうか。
 もし女性が男性と対等の位置づけになれば、女性もまた派閥争いに現うつつを抜かすことになるのだろうか。
 「僕だってこうした争いは好ましいと思っていない。しかし相手がやってくる以上は、戦わねばならないし、実際、ミズナミ銀行の将来を考えた場合、大日より興産が実権を握る方がいいと思っている。日未子には悪いがね」
 利洋は言った。
 「サイバーネットワーク社の引き受け業務を興産側で行うためには、具体的にどういう画策をするの?」
 日未子は訊いた。


【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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0775506
 全国有力書店におきまして、「フィナンシャル ジャパン」2006年7月号は5月20日発売です。
今月の第1特集は、バブル期の株式投信の運用残高を超えるほどの投資信託ブームの中で、カモにならない投資の鉄則や投資信託の選び方や株式パフォーマンス、だまされない投資知識を得るためのセミナーなど、賢い投資家になるための投資最新事情の特集を組んでいます。
また第2特集では、革命ともいえるウェブの進化によって私たちの身の回りで、そしてビジネスの世界ではどのような変化がもたらされているか。その変化に伴い、どのようなネット企業が勝ち残るのか、ビジネスのキーワードなども織り込みながら、ネット企業に投資する前に知っておきたい情報をまとめています。
特集以外でも、今注目をされている独立系投信会社のさわかみ投信の澤上社長とレオス・キャピタルワークスの藤野社長の運用スタンスのほか、今後の日本経済を左右する経済産業省の「新経済成長戦略」についての解説、前三重県知事の北川正恭氏と映画化された『県庁の星』の作家桂望実氏の対談、またプロゴルファー 深堀圭一郎氏とゴルフ解説者 佐渡充高氏とスポーツジャーナリストの二宮清純氏の鼎談「ゴルフの経済学」、「今の日本はソ連の崩壊時によく似ている」と語る、「国策捜査」でその存在を知らしめた外務省元主任分析官の佐藤優氏の、「ソ連崩壊と日本格差社会」 など盛りだくさんの内容となっています。

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2006.05.26

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(125)

 一方興産側にも弱点はあった。顧客層の問題だ。

 興産側は大企業取引には強いが、中小企業や新興企業の取引層が薄いのだ。そのため新規公開などの案件は大日銀行の取引企業が圧倒的に多い。
 役員やかなりの幹部が興産側に占められようとしている中で、大日出身の社員たちは、大日銀行の取引企業の新規公開は大日側で全てを仕切うとする動きを活発化させていた。
 これは、ミズナミ銀行、ミズナミ証券とはなったものの、大日側に証券業務に精通したより多くの人材を育成しようという意図だった。
 興産側とすれば、この動きは許せない。しかし同じ会社の中で、興産と大日で取引先を取り合いするなどという恥知らずなことをするわけにもいかない。
 そこで大日銀行の取引先の新規公開案件のうち、注目銘柄だけを選んで興産側で取り扱うよう画策することにしたのだ。その一つがサイバーネットワーク社だった。


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2006.05.25

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(124)

 「日未子の話を聞いていると、谷川君と薮内君を離した方がいいのかな」

 利洋はチーズをつまみに赤ワインを呑んだ。
 「そんなことをされたら私のせいみたいだから嫌よ」
 日未子は抗議した。
 「あのサイバーネットワーク社の案件が上がってこない理由が分かったからね」
 利洋は含みのある言い方をして、また赤ワインを呑んだ。
 ミズナミ証券は社長や役員もほとんどが興産側出身者で占められていた。興産証券と大日証券が合併した会社なので、当初は人事面でもバランスがとられていた。社長に興産証券や興産銀行出身者が就けば、会長は大日証券や大日銀行出身者が就くという具合だ。
 ところがしばらくすると、人事異動の度に大日側の役員がいなくなり、今では会長、社長とも興産側になってしまった。
 この原因は大日側の人材不足にある。証券業務などのノウハウを持つ人材の層が大日側は薄いため、人材を送りたくても送れないのだ。もはやミズナミ証券は興産証券と言っていい状況になった。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.24

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(123)

 「そんなことを言っていると、大日銀行だって伝統を守ろうとするわよ。そうするといつまでも一つになれない」
 日未子は言った。

 「女性は直ぐに一つになりたがる」
 利洋が複雑な笑みを浮かべた。
 「お互いいつまでも一つになれない、今食べた鮑のように片思いでもいいのじゃないかな。無理に一つになる必要もないかもしれない」
 利洋は言った。
 「チーズはいかがですか」
 鴨田が、十種類のチーズを運んで来た。
 利洋が幾つか選んだ。日未子はミモレットだけにした。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.23

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(122)

 利洋は鮑をあらかた平らげていた。
 「上の方が偉いのね。軸がブレないということが素晴しいわね」

 日未子は赤ワインを呑んだ。
 「興産銀行にもいい伝統があったのだけれどね」
 利洋は、赤ワインを渋そうな顔で呑み干した。日未子は、利洋が何を言いたいのか予測出来た。あまり聞きたいことではない。黙って鮑をフォークで刺した。
 「バブル崩壊から、金融再生プログラム、そして合併に行き着くわけだけれど、僕に言わせると興産銀行のトップは迷走し過ぎたね。興産銀行は日本経済の守護神を以て任じていたわけだから、経済が低迷すれば、銀行だって低迷するのは当然なんだ。しかし三つの過剰と言われる借り入れや不良債権、人員、設備、これらが正常になれば日本経済は再び立ち上がるのは自明の理だった。それが分かっていながら合併などという選択肢を選んだことは、愚かだったと思うよ。何とか我慢していれば、今日のように企業の業績回復期が来るわけだからね。それまで待てば良かったのさ」
 「利洋は合併反対なの?」
 「そういうわけではないさ。僕は現実を受け入れるタイプだからね。ミズナミ銀行の中でどうやって興産銀行の伝統を守ろうかと腐心しているだけだよ」
利洋は笑みを浮かべた。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.05.22

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(121)

 「利洋もバブルの先兵だったのね」
 日未子が言った。

 「今なら恥ずかしいという思いもあるけれど、当時は必死だった。他の銀行に負けたくなかったからね。ところがキッコーマンは、僕のセールスに『ノー』を返してきた」
 「たいしたものね」
 日未子は、再び鮑に醤油をつけた。
 「財務担当者が申し訳なさそうに、僕に言うんだ。『事業資金しか借りてはいけない、金利を安くするから借りろと言われても社内では五%かかっているつもりで計画を立てなくてはいけない、これがルールなのです。財テクをやりたくないわけではないのですが、絶対に上の了解が得られませんので、勘弁してください』と深々と頭を下げられてしまった…」
 「何度も頼んだの?」
 「ああ、何度も頼んだ。でも無理だった。あの当時は頑固者で保守的な会社だと思っていたけれど、今になってみれば、僕の方が恥ずかしい。伝統を守るということが如何に難しいことかと教えられたよ」


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.19

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(120)

 日未子は、利洋が話すのを聞きながら、鮑に醤油をつけて食べてみた。ソースで食べるのとはまた違う美味しさが口中に広がっていく。

 「お醤油を使うと、ますます素材が生きるわ。こうなるとシェフは素材選びから全く気が抜けないわね」
 日未子は、鮑の歯ごたえを存分に楽しんでいた。
 「キッコーマンにはね、昔、教えられたことがあるんだ」
 利洋が真面目な顔で日未子を見つめた。
 「バブルの頃のことだよ。財テクの時代って言われていただろう」
 「ええ、財テクをして収益を上げない会社は無能だ、とまでいう論調だったと聞いているわ。勿論、私はまだ銀行に入ってはいなかったけれどね」
 「凄い時代だった。みんなが競うように銀行からお金を借りてね、それを運用して収益を上げていた。財務担当の鼻息が荒くてね、物作りの現場の人たちを馬鹿にする始末だった。でもその人たちを嗤えない。僕たち銀行も無尽蔵に証券投資や不動産投資の資金を貸し付けていたからね。その頃、僕はキッコーマンに、興産銀行から融資を受けて運用するようにアドバイスに行ったんだ」


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.18

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(119)

 利洋と日未子のグラスに赤ワインが注がれた。目の前には鮑のグリエが置かれている。
 「お好みでお醤油もお使いください。また別の美味しさが味わえると思います」


 鴨田が説明した。鮑を盛った皿の隣に醤油を入れた小さな皿があった。
 「醤油でフランス料理をいただくのも楽しいね」
 利洋が言った。
 「フランス料理って、バターっぽくって濃いというイメージがあるでしょう。ソースが決め手と言うくらいだから。それに比べてイタリア料理や日本料理は手間もかけているけれど、素材を生かしているのよね。それでフランス料理も刺激を受けて、素材を生かす料理が多くなったの」
 「今回の料理も本当に素材が生きているね」
 利洋は鮑を美味しそうに食べた。
 「素材を生かすために、フランス料理にも醤油が使われるようになったそうよ。これはキッコーマンの方からの受け売りだけど…」
 日未子は、少し照れくさそうに言った。
 「キッコーマンは素晴しい、先見性のある会社だよ。数百年間も千葉県の野田というところで醤油を作り続け、それを世界に広げたわけだからね」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.17

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(118)

 フレンチレストランでは、客を快くもてなすために、それぞれが専門的な役割を担っている。注文を聞くのがメートル・ドテル。料理を提供するサービスがシェフ・ド・ラン。運ぶのがコミ。役割を十分に果たすには、長い修練が必要だ。料理に精通し、かつ愛情と尊敬を持っていないと出来ない。


 「ソースは、卵黄に白ワイン、エシャロット、ビネガー、澄ましバター、エストラゴン、檸檬汁を加えたものです。付け合せは夏野菜であるナス、トマト、ズッキーニのグリエとなっています」
 山本が解説をしてくれる。
 「赤ワインをお持ちしましょうか?」
 不破が利洋に訊いた。
 「お任せします」
 利洋が頷いた。しばらくして不破が持って来た赤ワインを、利洋がテイスティングした。
 「ブルゴーニュのコート・ドゥ・ボーヌのシャサーニュ・モンラッシェ村の赤ワイン、ルイ・ジャドー社製二〇〇一年でございます」
 「いいでしょう」利洋が満足げにテイスティングを終えた。
 利洋と日未子のグラスに赤ワインが注がれた。目の前には鮑のグリエが置かれている。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.05.16

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(117)

「大きい」
日未子は、鮑の大きさに驚嘆した。
「四百五十グラムございます」
鴨田が誇らしげに言った。

 「驚いたかい?」
 利洋が微笑んだ。
 「もうびっくりよ」
 日未子も自然と笑みを浮かべた。
 「これをグリルいたしまして、取り分けさせていただきます」
 鴨田は目の前で鮑を切り分け、焼き始めた。料理を取り分けたりするサービスを提供するのはシェフ・ド・ランの役割だ。鴨田は支配人だが、特別に日未子たちのためにその役割を担ってくれている。


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2006.05.15

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(116)

 「ばかばかしいね」
 利洋は言った。
 「ばかばかしいけど、現実にあったことよ」
 日未子は言った。

 シェフの山本が、「千倉産の鮑のグリエになります」
 と次の料理を日未子に伝えた。
 「鮑!」
 日未子の表情が一変した

 支配人の鴨田章裕が、銀の皿に載せた大ぶりの鮑を日未子に見せた。
 千倉は千葉県安房郡千倉町のことだ。南房総の町で、太平洋の荒波に育てられた大ぶりで良質の鮑が獲れることで有名だが、その中でもとっておきの鮑が、このクラウンレストランで客に供せられる。

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2006.05.11

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(115)

 「やり直しだな」
 谷川課長の淡々とした声が課内に聞こえている。神崎君は、聞こえない振りをして俯いている。

 「何ですって?」
 薮内さんがかすれたような声で言った。顔が紅潮している。興奮しているのだろう。
 「分からないのか。やり直しだと言っているのだ」
 「まだ読んでいただいていないじゃないですか」
 「何を言っているんだ。読んだよ。読みましたよ。だから言っているんじゃないか。だいたいだな、サインペンも上手く塗れない奴にろくな奴はいない。上司に対する気配りがゼロじゃないか」
 「サインペンの塗り方が悪いからですか」
 「それが重要なんだ。やり直せ」
 谷川課長は書類を薮内さんの机に向かって投げた。私は思わず悲鳴を上げそうになった。書類のバインダーが机の上で跳ねて、硬い音を立てた。
 薮内さんは、まだ谷川課長を見下ろしてその場に立っていた。手を握り締めている。こめかみのところに汗が浮かんでいるのか、蛍光灯で照り輝いている。
 「やり直せと言っているだろう」
 谷川課長が藪内さんを睨んでいる。薮内さんはじっと俯いたままだ。
 「やばくない? 何とかしてよ」
 私は神崎君に言った。
 「何? 嫌だよ」
 神崎君は顔を顰めた。
 「かわいそうよ。お願い」
 私は目を細め、両手の人差し指だけを合わせて、小さく「お願いのサイン」を送った。
 「仕方がないな」
 神崎君は苦笑いして、
 「薮内さん、電話! 間違って僕の席にかかってきました」
 と受話器を持って立ち上がった。薮内さんが神崎君を振り向いた。無言だ。周りの空気が張り詰めた。
 「電話ですよ」
 神崎君がもう一度言った。
 「ありがとう。今、行きます」
 薮内さんが動いた。空気が和んだ。
 他の誰もが肩の力を抜いた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は4月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」6月号に掲載されています。

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2006.05.10

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(114)

 「カラーのサインペンのインクが枠から飛び出しているじゃないか」

 谷川課長が書類をボールペンで指している。
 「おっしゃっている意味がよく分かりませんが…」
 薮内さんが困惑したような表情を浮かべている。
 「ここだよ、ここ。ここの黄色のインクが枠から少し飛び出しているだろう。見えないかね」「そう言われれば、少し枠から出ております。昨夜、遅くまで作成にかかったものですから、ミスをいたしました。申し訳ありません」
 薮内さんは頭を下げた。書類の強調したい部分に塗ったカラーのサインペンが、枠からはみ出したようなのだ。カラーのサインペンで強調する部分を塗るというのは、谷川課長の好みなのだ。役員や部長が、書類を見た時に直ぐに重要な部分が目に入るようにしておくのは、部下の気遣いだという。
 私はくだらないと思っていた。強調したければ、パソコンで太字か網掛けにでもすればいいことだ。それにそこまで上司に気を遣った書類を作る必要があるのだろうか。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は4月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」6月号に掲載されています。

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2006.05.09

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(113)

 「何? 書類?」
 「そうです。サイバーネットワーク社の取引構想です。上場も近いですし、課長が急がれておりましたから仕上げてまいりました」

 「ああ、そう」
 谷川課長は、薮内さんの必死の依頼をあっさりと無視した。薮内さんは動かない。じっと谷川課長の手元を見つめている。
 「ねえ、やばくない? 薮内さん」
 私は神崎君に言った。
 「見ざる、言わざる、聞かざる」
 神崎君は、おどけたように目、口、耳を手で順番に押さえた。
 「そういうわけにはいかないでしょう。このままだと何か起きるわよ」
 私は小声で言った。
 「大丈夫だよ。ほら」
 神崎君は視線を谷川課長に向けた。私も神崎君の視線の方向を見た。谷川課長が書類を持っていた。ようやく薮内さんの願いを聞き入れたのだ。それならさっさと見てあげればいいのに、と谷川課長の薮内さんへの仕打ちを憎々しく思った。
 「本当に意地悪ね」
 私は神崎君に囁いた。
 「僕の入手した新しい情報だとね、谷川課長があまりにも山下部長にヘーコラしているって、他の大日の幹部に薮内さんが話したらしいよ」
 「告げ口?」
 「いや、そんなつもりはないだろう。何かの席でふとした弾みで出た話じゃないの。薮内さんは、わざわざ告げ口する人じゃないからね」
 「それが回り回って谷川課長の耳に入ったわけ? 最悪ね」
 「そういうことだよ」
 神崎君の情報に聞き入っていると、
 「これ、汚いな」
 谷川課長の信じられないような言葉が、私の耳に飛び込んできた。私は、慌てて谷川課長と薮内さんに視線を移した。
 「何でしょうか?」
 薮内さんが身体を丸めて書類を覗き込んでいる。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は4月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」6月号に掲載されています。

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2006.05.08

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(112)

 薮内さんが書類を提出した。谷川課長は見ようともしないでそれを横に置いた。薮内さんは何も言わないでじっと立っていた。私は、何か起きるのではないかとはらはらしながら様子を窺っていた。

 谷川課長はなぜ薮内さんの書類を見ようとしないのか。あの書類は、インターネットと人材派遣ビジネスの融合を特徴にしている株式会社サイバーネットワーク社のIPO(Initial Public Offering)、いわゆる新規公開の案件だ。 公開の引き受けなどは系列のミズナミ証券が行うが、公開後の総合的な取引構想を描いたものだ。以前から谷川課長は、書類の作成を急ぐように薮内さんに命じていた。というのも、このサイバーネットワーク社は元々大日銀行の取引先だったから、谷川課長も力が入っていたようだ。
 「何を突っ立っているんだね」
 谷川課長が、嫌な物でも見るように薮内さんを睨んだ。
 「その書類をお読みいただけませんか」
 薮内さんは、喉の奥から絞り出すように言った。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.28

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(111)

 利洋は肩をすぼめた。
 日未子は黙っていた。利洋から、嫌なにおいが流れてくる。今までになかったことだ。でもこのにおいを感じることが利洋を深く理解することなのかもしれない。

 「彼らは僕たち興産銀行の連中に対して『資金繰りひとつ読めないじゃないか』と言っているそうだ。大きな口ばかり叩いて、地道なことは何も出来ないとね。でも企業の経営者が求めているのは、経営者になれるような人材との意見交換だよ。課長にしかなれない人間との話など、誰が望んでいるものか。資金繰りなどは課長が読めればいいんだよ」
 利洋の顔が歪んだ。
 「谷川課長の話じゃないの?」
 日未子は言った。
 「そうだったね。僕の日頃のストレスを日未子に発散してしまいそうになったよ」
 「利洋もストレスがあるの?」
 「そりゃ、あるさ。でもその話は後でね。今は谷川君のことだよ」
 利洋は言った。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.27

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(110)

 利洋は、シャブリを呑んだ。
 日未子は、口ごもった。

 「谷川君が原因なのか」
 利洋が話の水を向けてきた。
 「よく分からないけど、谷川課長が来てから、変化したようには見えるわ。誤解しないでね。谷川課長が悪いと言うのではないわよ」
 「谷川君は優秀だよ。大日銀行の人間にしては大局的なものの見方が出来る方だ」
 日未子は利洋の言い方にざわざわとした気持ちになった。表情が、一瞬にして険しくなった。
 「どうした? 気に障ったかい?」
 利洋が笑みを浮かべた。
 「ちょっと大日銀行を馬鹿にした言い方に聞こえたから」
 日未子は言った。
 利洋は笑って「日未子は意外に愛行精神があるんだね」
 と言った。
 「利洋が谷川課長を評価しているのは分かったわ。大日銀行出身者にしては大局的な見方が出来る点をね」
 利洋はますます笑った。
 「そんなことを気にしていたのか。ちょっと説明しようか。合併して驚いたことはね、両行の人間の違いさ。大日銀行の幹部たちにはいい人が多いよ。でもそれだけだね。お客様には頭を下げる、天気の話をする、ゴルフの話をする、ザッツ・オール」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.26

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(109)

 「随分、深刻なのかな」

 「いえ、そうじゃないわ。他人の話をするのって難しいと思っているだけ。自分の思いがそのまま利洋に伝わるわけではないし…。まして利洋の立場を考えると、私の余計な情報が他人の人生を左右するのも嫌だわ」
 「女性って、いろいろと考えるんだな。そんなに難しく考えないでありのまま頼むよ」
 利洋はナイフとフォークの手を休めない。何か関心があることが起きると、かえって食欲が増すのだろう。勢いよく海老を切り分け、口に運んでいる。
 日未子は蕪を食べた。しっとりとした甘さが口中に広がった。
 「薮内さんは、私の目から見てとても辛そうなのよ。なんだか仕事が手についていないという様子なの。誤解しないでね、仕事が出来ないと言っているわけではないのよ」
 日未子は、慎重に言葉を選ぼうとした。
 「分かっている」
 利洋は、冷静に言った。
 「以前は、明るくてテキパキと仕事をこなしていた。ところが最近は机の上も雑然としているし、仕事の手際が極端に悪くなっているという気がするの。以前から、どちらかと言うと仕事は丁寧だけれど少し遅いかな、というタイプだったけれど、今はどうかな?」
 「両方ともだめになったって言うのかい?」
 利洋の疑問に、日未子は頷いた。
 「そうね…。仕事の内容もスピードも遅くなっているような気がするわ」
 「彼の変化の原因は何かな」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.25

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(108)

 海老の甘味が突然に消えた。口の中が乾いてきた。


 「食事中には仕事の話をしないというのが、利洋流ではなかったの。薮内さんの話を出したことを、私、反省しているのだから」
 日未子は顔を顰めた。
 「反省しなくていいよ。流儀は流儀さ。時と場合による。やはり聞いておくべきことは聞いておこうと思ってね。話してほしい」
 利洋の目は笑っていない。
 日未子は水を飲んだ。どう話せばいいのだろうか。谷川と薮内との関係を素直に言えばいいのだろうか。
 神崎が言ったように、大日銀行と興産銀行の関係についても言及すべきだろうか。言い方次第では告げ口のように聞こえはしないだろうか…。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.24

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(107)

 蕪や空豆などの夏野菜を添えた伊勢海老のナージュが運ばれてきた。
 「香草や野菜の香りをつけたクールブイヨンで、伊勢海老を半生くらいに火を入れたものでございます。ソースはサフラン風味のバターソースとなっています。ノイリー酒というちょっと甘めのお酒にバター、トマト、フランボワーズビネガーなどを加えておりますので、甘味と酸味をお感じになると思います」

 山本シェフが説明してくれる。
 「甘いわ」
 日未子は感激した。半生くらいに火を入れたと山本は説明したが、絶妙のボイルだ。生ではなく、ボイルし過ぎてもいない。海老の甘味、うま味を最高に引き出している。
 「確かになんとも言えないね。ぷりぷりとした歯ごたえもきっちり残っている」
 利洋も満足そうにフォークを口に運んでいる。
 「私、あまり海老とかは好きではなかったのだけれど、これほど美味しいのに出会ったことがなかっただけなのね…」
 「ところで」
 利洋が日未子の言葉を遮るように言った。
 「なあに?」
 「先ほどの薮内君の話を聞かせてくれよ」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.04.19

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(106)

 「初めてね…」
 日未子はシャブリを呑んだ。

 「何が?」
 利洋が訊いた。
 「そんなに真剣な顔をするのは…。似合わないな」
 「日未子が薮内君の名前を突然口に出すからさ。ところで薮内君はどうして不幸なの?」
 利洋は真っ直ぐに日未子を見ている。日未子は迷った。利洋に相談しようかと思わなかったわけではない。
 だが、言い方に気をつけなければ、課長の谷川を中傷することになってしまう。
 日未子はまたシャブリを呑んだ。
 「話してほしいな。気になるんだよ。薮内君って大日銀行出身だよね。日未子と同じだ」
 日未子は頷いた。
 「大日銀行の人に何か問題が起きたりすると、興産銀行出身である僕が余計に責められるのさ。苛めたのではないかとね。それが僕の失点になる可能性があるんだ」
 利洋が、シャブリを呑み干した。
 「失点?」
 利洋からよもや聞くとは思っていなかった単語に日未子は驚いた。
 「そう、失点さ。実は、今年の暮れくらいに執行役員になる可能性があるんだよ」
 利洋は、笑みを浮かべた。しかしそれはいつも見ていた軽やかな笑みではなかった。
 「だから失点をするわけにはいかないのさ。今や、ミズナミ銀行の人事は興産銀行側が握りつつある。これを一気に推し進めて、ミズナミ銀行を実質的に興産銀行にしてしまおうと考えているんだ。なにせ景気の回復と共に興産銀行の方が圧倒的に収益を上げているからね。リテールの大日銀行は、銀行経営の下支えにはなっているけれど、それ以上でもない。人材もいないしね」
 「最年少役員?」
 「そうだ。最年少役員を興産銀行側から出して、大日銀行側からは出さない。人材不足を理由にしてね。それで一気に人事の実権を奪ってしまおうという計画だよ。内緒だよ。だから薮内君のことが気になったのさ。目的が成就するまでは、慎重でないといけないからね。教えてくれる?」
利洋は微笑んだ。
 野心…。そんな言葉が日未子の頭をよぎった。
 日未子は、利洋に汗のにおいを感じた。初めてのことだった。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は3月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」5月号に掲載されています。

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2006.04.18

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(105)

 利洋は真面目な顔で訊いてくる。
 完全に仕事モードに入ってしまったようだ。

 「そうね…、少なくとも幸せそうには見えない」
 「はっきりしないね。いつもの日未子らしくないじゃないか。僕も職場の様子を知っておく必要があるからね。なにせ合併してまだ二年だ。行内もしっくりいっているとは言いがたい。僕も部長として責任があると思っているから」
 「責任って?」
 「部内を纏める責任だよ。僕は、合併後初の営業部長になった。若手を登用しようという流れに乗った人事だって言われているんだ。即ち、僕が部長になったことでポストを追われた先輩たちから恨まれているのさ。だから上手くやらなければならないというプレッシャーが結構あるんだよ」
 利洋は俯いてスープを飲んだ。二人で会っている時には見せなかった仕事の顔だ。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.17

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(104)

 「どうして薮内君に食べさせたいと思ったの?」

 「ごめんなさい。仕事の話を持ち出したりして…」
 日未子は焦った。利洋は、二人でいる時は仕事の話題を一切しない。利洋にしてみると、仕事の話をすれば、どうしても日未子との関係を考えてしまうからだ。
 「いや、いいんだよ。でもどうしてこの美味しいスープを薮内君に飲ませたいの?」
 「変な意味じゃないのよ。幸せになるかな…って思ったのよ」
 「すると薮内君は、幸せではないと言うのかい」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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2006.04.14

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(103)

 次に運ばれて来たのはスープだった。
 「北海道産の未来コーンを使った冷たいスープでございます。砂糖は一切使っていません。コーンの甘味のみです。カレーをアクセントに添えました」

 山本が丁寧に説明する。
 「未来コーンというのは、札幌で食べたことがあるわ。甘いのよ」
 日未子は、利洋に弾んだ声で言い、スプーンでスープを掬い、口に入れた。
 「ああ、素晴しい。美味しい」
 日未子は言葉が見つからなかった。
 テレビのグルメレポーターなら何と言うのだろうか。まったりとした深い甘さ、とでも表現するのだろうか。
 「こんな美味しさ初めてよ。不破さん、一口、食べてみてよ」
 日未子は、スープを掬って、不破に向けた。不破は楽しげに微笑んだ。
 「不破さんは、食べたくても食べられないさ」
 利洋が笑った。
 「でも私が独り占めするには、とても我慢出来ないくらい美味しいのよ」
 「良かった。日未子がそんなに喜んでくれて。誘った甲斐があったよ」
 「これを薮内さんに食べさせてあげたいわ」
 日未子は、幸せそうな顔で言った。利洋の顔が固くなった。微笑が消えた。日未子は驚き、まずいと思った。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.13

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(102)

 「シャブリ・グラン・クリュ・レ・クロ二〇〇四年でございます」
 不破が、日未子のグラスにワインを注いだ。

 「僕も不案内だから、ワインは不破 さんにお任せしますね」
 利洋が言った。
 「料理がより美味しくなるようなワインを選ばせていただきます」
 不破が軽く低頭した。
 日未子がグラスを口に運んだ。すっきりした味だ。シマアジや野菜の甘味がさらに引き立つような気がした。日未子は、気取った振りをして重々しく頷いた。
 「美味しい?」
 利洋が訊いた。
 「ええ」
 日未子は答えた。このまま時が止まってほしいと切実に思った。

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2006.04.12

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(101)

 一皿目が運ばれて来た。筒型のケーキのようだ。
 「料理を説明させていただきます」

 不破が案内して来たのはシェフの山本秀雄だ。
 「天然シマアジのタルタル仕立てに白バルサミコヴィネーガーをアクセントにいたしまして、インカの目ざめという黄色いジャガイモ、トマトのコンフィ、西洋わさび、ピクルスなどをセルクルというリング型に入れて重ねたものでございます。周りをサラダで飾り、フレンチドレッシングをあしらっております」
 「白バルサミコヴィネーガーを使ったのは、シマアジに色が移るからですか」
 日未子が訊いた。
 「その通りです」
 山本が微笑んだ。 
 白バルサミコというのは、使ったことがないわ」
 日未子は感心したように料理を見つめた。美しい。芸術品だ。
 「このジャガイモは甘いねえ」
 利洋が唸っている。
 「美味しい。シマアジも甘いわ」
 日未子は、シマアジの上品な甘味にも感動していた。

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2006.04.11

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(100)

 パンが運ばれてきた。
 「かわいい、美味しそう」
 日未子は思わず声を上げた。

 三種類の小さなパンがあった。日未子は迷いながら、小さなフランスパンという名のプティ・バケットとブック型のリーブルを選んだ。
 フランスパンは皮を食べると言われています、と小さく焼いた理由を不破が説明した。
 「沖縄はどうだった?」
 利洋が訊いた。
 「素晴しかったわ。初めて海に潜ったけれど、まるで別世界。宇宙にいるような気分だった。そうそう、海亀を見たのよ」
 「海亀?」
 「優雅に泳いでいたわ。それを眺めているだけで癒されたというのかしら、時間を忘れてしまったの」
 「それは良かった」
 「これ、お土産」
 日未子は、袋に入れた包みをテーブルに置いた。
 「うれしいね。何だろう?」
 「開けてみて」
 日未子に促されて、利洋が丁寧に包み紙を外した。
 「甚平じゃないか」
 「国際通りで見つけたのよ」
 「背中に何か書いてある」
 「読んでみて」
 「酔夢人か…。僕のこと?」
 「『すいむんちゅ』と読むのよ。利洋は、いつも夢に酔っている人だから…」
 「ああ、そういう意味か。僕は、酔っていつも夢見状態の人かと思ったよ」
 利洋が笑った。
 「それの方が当たっているかもしれないわね。うれしい?」
 「ああ、うれしいよ」
 利洋の目が、少し真面目になった。
 「あまりうれしくないの? そうか…、家で堂々と着るわけにいかないものね」
 日未子は、シャンパンの泡越しに利洋を眺めた。歪んで見えた。
 「そんなことないよ。部下に貰ったと言って、これを着てビールを呑むさ」
 利洋は、いつもの笑みに戻った。
 少し距離感を間違えてしまったのかしら。やはりその場でなくなってしまう物がよかったのかしら。泡盛にすれば無難だったかもしれない。
 日未子は少し後悔した。同時に、利洋が自宅のベランダでこの甚平を着て、夜風に当たりながらビールを呑んでいる姿を想像した。また炎がゆらめいた。それには嫉妬の思いが篭っていた。ビールをグラスに注いでいるのは、日未子ではなく利洋の妻だったからだ。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.10

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(99)

 「シャンパンをお持ちしました」

 シェフ・ソムリエの不破貞夫が、日未子のグラスにシャンパンを注ぎ入れた。透明な泡立ちを眺めていると、いつしか日未子の心の炎は消えてしまった。
 「こちらはレストラン・ラ・ピラミッドのハウスシャンパンでございます」
 不破は優しげな微笑を浮かべて説明した。
 ラ・ピラミッドはフランスの有名レストランであり、パレスホテルの提携先だ。
 「乾杯」日未子は、グラスを持ち上げた。
 「これから始まる日未子との時間に乾杯」
 利洋が、軽やかに言った。いつもの少年のような笑顔だ。どうしてこんな笑顔を保つことが出来るのだろうか。利洋が、興奮して顔を赤らめたり、歪めたりしたのを見たことがない。
前菜が運ばれてきた。クラウンレストラン特製のスモークサーモンと小さな陶製のスプーンに載せたかぼ
ちゃのムースだ。
 「ここのレストランは、いつ来ても素晴しい。創業以来のフランス料理の伝統を守っているからね」
 「前に説明してもらったことがあるけれど、初代料理長田中徳三郎という人の味の基本を守り続けているの
でしょう?」
 「田中という人は、ホテルリッツのソース責任者や東京會舘の料理長を任された人で、その当時最高のフラ
ンス料理のシェフだった人だよ。その人が、創業されたパレスホテルに料理の責任者として迎えられて、心
血を注いで開発したメニューが今もこのホテルを支えているのだよ」
 「伝統というのは凄いわね。日本の伝統を守っている皇居の傍にこのホテルがあるという理由が分かる気が
するわね」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

2006 04 10 [16. 小説「ニッポン・ウーマン」] | 固定リンク | トラックバック

2006.04.07

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(98)

 「ホテルというのは、ホスピタルという意味だよ」
 利洋は笑みを浮かべて答えた。

 「分からないわ」
 日未子は首を傾げた。
 「もてなすということさ。いいホテルというのは、客が入場して来た時から全ての従業員が、その客を適度な距離感を保ちながら世話をしてくれているのさ。このパレスホテルに入った時から、日未子はなんとなく温かい優しさに包まれているという感覚がしなかったかい?」
 「そう言えば、なんだか優しく見つめられているような…」
 「それだよ。悪いホテルは街中を歩いているようなものさ。誰も自分に関心を持っていない。孤独だよね。いいホテルは、誰もが日未子を見守っているのだよ。だから食事の時間に遅れることも、下のバーで呑んでいることも全てお見通し…。分かった?」
 利洋の口から距離感という言葉が出た。いったい適度の距離感って何だろう。利洋と私とは、どういう距離感を保っているのだろうか? それは利洋には心地いいのだろうか?
 でも私にはどうだろうか?
 「こちらの席をご用意いたしました」
 和田倉噴水公園に面した窓側の席だ。
 鴨田が、日未子の席を用意してくれる。利洋の席は女性のサービス係が担当だ。
 「いつ見ても素敵ね」
 日未子は窓外に広がる景色にうっとりと目を細めた。
 公園の緑を囲むように内堀通り、日比谷通りが走る。内堀通りの向こうには皇居の緑、日比谷通り沿いにはオフィスビルや帝国ホテルの明かり。遠くには東京タワーも見える。望んでもこれほどの景色は滅多に得られるものではない。静謐で、かつ都会のダイナミックさを兼ね備えている。全てがバランスよく、適度の緊張感を持って配置されている。
 「オフィス街などの明かりや騒音が皇居の静けさを邪魔しないように、距離感を持って、謙虚さを失っていないのはここだけだろうね。日本の景色という景色が、皆、我先に目立とうとして騒々しくなってしまったからね。看板だって隣が立てれば、もっと大きくて派手なものを立てる。その競争で景色は見るも無惨に変わり果ててしまう…」
 利洋は、悲しそうな表情を浮かべた。
 「距離感って大切なのね」日未子は言った。
 「そうだね。何事においてもね」
 利洋が言った。
 日未子は心の奥で炎がゆらめくのを感じた。利洋の言葉が、日未子に対して微妙な距離感を保っていることを指しているように思えたからだ。
 この炎には小さな怒りが篭っているように思えた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.06

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(97)

 「このパレスホテルはね」
 利洋は、十階に上がるエレベーターの中で解説し始めた。戦前、パレスホテルの場所には、林野庁の前身である帝室林野局という役所があった。それを戦後、アメリカ大使館にしようというアイデアが出た。しかし、皇居の前に星条旗揚がるのはいかがなものか、という反対の声が上がった。その結果、民間に払い下げられ、パレスホテルの誕生となった。

 「そう言えば、皇居の前には帝国ホテルがあるわね。パレスホテルと並べるとインペリアル・パレスで、丁度皇居という意味になるわ。これ、考えて名づけられたのかしら」
 「そうだね。上手く符合するものだ。気づかなかったよ。日未子は面白いことを考えるね」
 利洋は、微笑んだ。
 パレスホテルの外壁には百六十六万枚もの信楽焼タイルが使用されている。これは皇居との調和を考えて、皇居の緑を育む大地の色を選択したからなのだそうだ。
 「皇室に対する尊敬が、ホテルの背骨を貫いていると言っていいだろうね」
 利洋はまるでパレスホテルの社員のように強調した。
 エレベーターが十階に到着した。
 そこにはクラウンレストラン支配人鴨田章裕と女性のサービス係が待っていた。
 「山下様、お待ちしておりました」
 鴨田はきびきびとした動作でレストランに案内する。
 「ちょっと会議が長引いてね。それにバーでマティーニをいただいていたものですから、申し訳ありません」
 利洋が予約時間に遅れたことを詫びた。
 「吉田から連絡を受けておりました」
 鴨田が笑みを浮かべる。
 日未子は、驚いた。ロイヤルバーの吉田は、いつの間に鴨田に連絡したのだろう。電話をかけるような動作もなかった。まさかテレパシーというようなサイコロジカルな能力があるとも思えないが…
 「ねえ、吉田さんはいつ鴨田さんに私たちが遅れるって連絡したのかしら?」
 日未子は小声で利洋に訊いた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.05

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(96)

 「どうしたの? ぼんやりして」
 「初めて利洋とここで乾杯をしたのはいつだったかな、と考えていたの」


 「それは、合併後の営業部再編で日未子が僕の部下になった時だよ。やあ、君か、ということになって、僕が声をかけたんだ」
 「そうだったわ。新営業部の旗揚げの会をパレスホテルでやるから、下見に行こうと誘われて、のこのこついて行ったら、下見はいい加減で、ここで呑んだ…」
 「いい加減だなんてことがあるものか。ただ、呑んでいた時間の方が長かっただけさ」
 利洋は、マティーニを呑み干すと、スタッフド・オリーブを噛んだ。
 「さあ、行こうか」
 利洋がカウンターを離れた。日未子はカクテルのグラスを置いた。まだ三分の一ほど残っていた。
 「まだ残っている…」
 「レストランの食事が待っているからね」
 利洋は、カウンターに置いた日未子の手に自分の手をそっと重ねてきた。日未子の身体の中の芯に、ぽっと小さな炎が点って、ゆらめいた。
 「沖縄の話でもたっぷり聞かせてほしい…」
 利洋は囁くように言った。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.04.04

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(95)

 利洋は、軽く低頭した。口元は相変わらず穏やかに微笑んでいる。
 「確かにこの企業への融資は、当方が大日銀行に負けまいとして無理に増加させてしまったようです」

 「君、なんてことを言うのだ」
 興産銀行営業部長は興奮した。身内から批判されたからだ。利洋は、笑みを浮かべたまま続けた。
 「こうした融資競争は経営リスク上も問題になりますから、今日をもって厳格に中止いたしましょう。もし不当と思われる行為が見つかりましたら、どちらかの一方的な訴えのみで不当な行為とみなし、原状復帰とすることにいたしましょう。そしてその前提で、今月末の融資残高でもって、旧大日、旧興産の主幹店を決めましょう。ただしこれはあくまで暫定的な措置であり、合併後速やかに営業部は統合し、旧大日や旧興産という区分をなくし、業種ごとに再編するということにいたしませんか」
 利洋は、あっさりと言い切った。
 そして微笑を浮かべた。
 日未子は、利洋と目が合った。利洋が片目をつぶった。ウインク?まさか? でもおかしくてクスリと笑いを洩らした。大日銀行営業部長が、日未子を振り向いて睨んだ。
 「検討に値しますな」
 大日銀行営業部長が、重々しく言った。
 「ありがとうございます」
 利洋は言った。
 「山下副部長の案で検討し直してみましょうか」
 興産銀行営業部長が言った。
 両部長とも利洋の微笑みの軽やかさにふんわりとのせられてしまったかのように、角を突き合わせるのを止めてしまったのだ。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

2006 04 04 [16. 小説「ニッポン・ウーマン」] | 固定リンク | トラックバック

2006.04.03

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(94)

 だが、この問題は、それほど簡単ではない。なぜなら多くの有力な取引先を担当することが、自分たちの出世や発言力の強化、天下り先の確保などに直接関係することになるからだ。

 そこで客に「興産銀行がいいか」「大日銀行がいいか」と選択を迫ることになる。客にしてみればどちらでもいいのだが、いろいろと脅されているうちに客は、「やはりメインは興産銀行だ」「大日銀行は親切だが、興産銀行は冷たい」「融資が合算され、膨らんでしまうが維持してくれるのはどちらだろう」などと考えるようになってしまう。そして遂には合併後の「ミズナミ銀行」ではなく、「興産銀行」「大日銀行」のどちらかと取引したいと願うようになってしまうのだ。こうして客を巻き込んでの合併後の勢力争いが展開されていくことになる。
 「この企業は、取引の歴史、融資残高から判断して、大日銀行がメインになるべきでしょう」
 日未子の目の前で大日銀行営業部長、即ち日未子の上司が難しい顔で話している。
 「それは違う。今では、我が興産銀行の方が、残高が多いではないですか」
 興産銀行の営業部長が話している。利洋は黙っている。
 「その残高だが、噂では無理やり貸し込んだそうじゃないですか。そういう無駄なことは止めようということになっていたのではありませんか」
 大日銀行営業部長が不満そうに唇を歪める。残高が多い銀行の方が合併後も主力取引となるため、合併が決まってから無理やり融資を増やすという行為を責めているのだ。こんなことをすれば融資残高が増加し、経営リスクが増大してしまう。
 「失礼なことをおっしゃいますね。無理やり貸し込んでいるのはそちらでしょう。うちは、防衛的に融資を増加させただけです」
 興産銀行営業部長が腹立たしげに言った。融資を増やしてきたのは、大日銀行の方だと主張しているのだ。
なんて不毛な議論を繰り返しているのだろうか。政略結婚の条件を詰めるような議論ばかりだ。こんなことで合併が上手くいくのだろうか?
 日未子は暗澹たる気持ちになった。
 「ちょっと意見を言わせていただいてよろしいでしょうか」
 利洋が遠慮がちに手を挙げた。興産銀行営業部長が彼を一瞥し、
 「いいよ」
 と意見を言うのに同意を与えた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


 

2006 04 03 [16. 小説「ニッポン・ウーマン」] | 固定リンク | トラックバック

2006.03.31

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(93)

 利洋の言った言葉で一つだけはっきり覚えているものがある。日未子の名前に関する言葉だ。

 「日未子…。邪馬台国の卑弥呼、日の本の未来の子、毎日、未来を夢見る子…、どれを意味しているのかな。不思議な名前、いい名前だね」
 日未子は、それに対してなんて答えたのだろうか? 子供の頃、「女王卑弥呼」ってからかわれました、などと照れながら答えたのだろうか。
 会議室に入り、日未子は部長の後ろに座っていた。テーブルを挟んで正面には利洋が座っていた。日未子は、じっと利洋を見つめていた。会議のテーマは、取引先の主幹店をどうするかだ。興産銀行と大日銀行とが共通に取引している場合、どちらが主力になるかを調整するのだ。
 これはよく考えたら非常に無意味な議論だ。なぜなら、合併して一つの銀行になるのだから、どちらが主力などということはないはずだ。客の視点に立ってみると、より鮮明にこのことは理解出来るだろう。客は、それまで興産銀行と大日銀行とそれぞれ親しく取引をしていた。それがある日、合併して一つになるからと言ってきた。客は、元々両方の銀行と親しいのだから、どちらでもいいはずだ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.30

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(92)

 「ラッキー…、ですわ。ご一緒させてください」

 「どうぞ、どうぞ。申し遅れましたが、私は山下利洋です。営業部の副部長をしています」
 男性は、名前を名乗ると、日未子の前を歩き出した。
 エレベーターに乗り、会議室までの数分間のことを、日未子はよく覚えていない。そこで利洋と何を話したか、何を笑ったか…。
 利洋の年齢が、日未子よりずっと高いのは分かった。四十歳を超えているだろう。立場も興産銀行の営業部副部長だ。だが、年齢や立場から来る尊大さは微塵も感じなかった。
 何と表現していいだろうか。
 生活臭がない…。
 銀行ばかりではないだろうが、組織の中で長く過ごしたものには、どうしても嫌なにおいが染み付いている。それは実際に汗のにおいなどの体臭の時もあるし、そうではなく、心の中から染み出して来るにおいもある。猜疑心に満ちた目、表情が歪んでしまう皮肉を発する唇、敵と味方とに峻別する鼻…。これらは心を反映する部位だ。物事を正直に真っ直ぐ捉えることが出来なくなった時、独特の嫌な臭気を発する。自分では決して気づくことはない。
 ところが利洋には、この臭気がまるでないのだ。素直に話し、素直に笑う。その微笑みは、中年の男性に対して失礼なのかもしれないが、「まるで少年のようだ」と日未子は思った。そしてその笑みは日未子の心を軽やかにした。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.29

ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(91)

 日未子は、丸の内にある興産銀行の本店を訪ねた。今から三年前、平成十四年のことだ。やはり夏…。

 興産銀行と、日未子が勤務していた大日銀行は、翌年三月の合併に向けて精力的に協議を繰り返していた。
 日未子は、営業部に属していたが、直属の部長が興産銀行で行われていた合併会議に参加していた。彼から、資料を持って来てほしいと連絡が入った。日未子は資料を持って興産銀行に駆けつけた。
急いで飛び出して来たために、どこで会議を行っているかを聞き漏らしてしまったのだ。受付で困った様子を見せていると、そこに通りかかった男性がいた。それが利洋だった。
 日未子は、彼と会ったことがある。
 でも言葉を交わしたことはない。彼が、大日銀行で行われた会議に出席していた時に見たのだ。素敵だなという印象を持った。背も高くがっしりしていて、顔立ちも良かった。何よりも目に若さというか、力を感じたのだ。日未子は、迷わずその男性に近づいた。
 「あの…、失礼ですが」
 日未子は、見上げるようにして言った。
 「何でしょうか?」
 彼は、微笑みを投げて来た。
 「確か、営業部の合併協議に出ておられましたよね」
 「ええ、メンバーですが…」
 「よかった」
 「何がよかったのですか。僕にはさっぱり分からないが」
 「私、大日銀行の営業部の大江日未子といいます。部長に言われて、資料を持って来たのですが、場所を聞き忘れまして…」
 日未子は書類を抱えながら、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
 「ああ、そうですか」
 彼は、大きく頷いた。
 「場所、お分かりになりますか」
 「勿論です。今から私もその会議に出席しますからね」
 彼は、微笑んだ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.27

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(89)

 客ばかりではない。職場の人間関係における距離感も難しい。その悩みは、日未子だけではない。谷川課長と薮内だって距離感が取りづらくなって、いがみ合っている。

 距離感というのは、絶えず変化する。愛している人なら、相手との距離は近くなり、心が弾む。ところが少しでも愛が冷めると、途端にその近さが苦痛になってくる。離れたいという思いが強くなる。
 ある人に聞いたことがある。愛している時は、何もかも受け入れたくて、相手と距離感ゼロ、すなわち溶け合っていたくなる。ところが愛がなくなると、相手の動作の一つ一つが嫌になり、目の前で見ているはずなのに幽体離脱したように上空から醒めた目で相手を見つめるようになる。その時、相手に笑みなどを浮かべている自分を見ると、殺したくなるくらいの嫌悪感に襲われる。これなども相手との距離感が劇的に変化したから起きる現象だ。
 利洋とは、これからどういう距離感を保って行けばいいのだろう?
 日未子はカウンターを手で優しく触ってみる。
 「ねえ、吉田さん、もしバーにカウンターがなければどうなる?」
 「これがなければ、ですか?」
 吉田は、少し戸惑いの表情を浮かべた。
 「考えたことない?」
 「ええ、考えたことないですね。でも、カウンターのこの幅が私とお客さまとの絶妙の緊張感を保ってくれています。それがお客さまの本当の寛ぎに繋がっているのだと思います」
 吉田は言った。
 カウンターとは相手との距離感を保ち、緊張感を維持するものなのだ。
 これがなければ客もバーテンダーも癒着した関係になり、だらしなくなってしまうのだろう。だらしないところに豊かな関係は築かれない。
 「納得したわ。カウンターというものの大切さがね」
 日未子は言った。
 七時を、もう二十分も経過している…。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.24

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(88)

 吉田は、微笑んだ。
 ベルモットのボトルだけを見せられた客は、そのラベルでほのかな甘味を感じたのかもしれない。
 マティーニはジンとベルモットだけで作る。材料が少ない分、バーテンダーの技が美味しさの決め手になるのだ。
 

「吉田さんも今井清みたいに伝説になるのかな…」
 日未子は、牛乳のカクテルを呑みながら言った。
 「とても、とても」
 吉田は、にこやかに否定した。
 日未子は、バーテンダーの仕事を見ていると、距離感ということを真剣に考えてしまう。それは客との距離感のことだ。吉田は自然に行っているが、客が最も寛ぐことの出来る微妙な距離を保ち続けるのは大変な努力が必要であり、感性が磨かれていなくてはならないと思う。
 どんな職業に就いていても、例えば日未子のように銀行という職場にいても、客との距離感が一番難しい。
 近くなりすぎれば癒着であり、融資に関して正常な判断が出来なくなる可能性がある。ところが離れすぎると情報が入らなくなり、それもまた企業の実態が分からなくなる恐れがある。
 特に、日未子のように女性で営業を担っている場合は、この距離感に悩むことが多い。客が別の目的を持って距離感を縮めてくることがあるからだ。客には当然、男性が多い。すると、ちょっとした日未子の振る舞いや笑みを自分への好意と誤解する者も多い。その誤解が解けたからと、笑って済ませるわけにはいかない。悲しいことに相手は、より遠くに離れてしまう。時には、離れるだけではなく、攻撃的にさえなってくることもある。誤解を解かれたことが、自分に対する侮辱だと思うのだろうか。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.23

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(87)

 パレスホテルには「ミスター・マティーニ」と呼ばれた伝説のバーテンダー今井清の伝統が息づいているからだ。

 今井清は、戦前からバーテンダーとして東京會舘で働き、パレスホテル開業と同時(昭和三十六年)にチーフバーテンダーとなった。
 今井は、数多くのカクテルを考案したが、中でもカクテルの王様と言われるマティーニは、今では「伝説のマティーニ」と名づけられ、このカウンターで提供されている。
 「このカウンターに座っていると時間を忘れるわね」
 日未子が吉田に語りかける。
 「カウンターがいいからでしょうか。この木製のカウンターは、どのお客さまにもゆったりと肘を掛けられるような高さになっています。お客さまに向かって下るなだらかなスロープの角度が絶妙なのでしょうね。これも今井清の考えたものです」
 「凄い人だったのね、今井清って」
 「今井の作るマティーニをご所望になるお客さまが、このカウンターにお座りになりますと、その方のその日の体調や気分に合わせてマティー ニを作ったそうです」
 「マティーニって、ジンとベルモットで作るのでしょう?」
 「その通りです。よくご存知ですね。通常は、ジンが三分の二、ベルモットが三分の一などというのですが、ジンの配分を多くして辛口にするとか工夫をしたようですね。時には、ベルモットのボトルだけを見せて、ジンだけのマティーニを作ったこともあるようですよ」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は3月20日発売の「フィナンシャル ジャパン」5月号に掲載されています。

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2006.03.22

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(86)

 「はい、出来上がりました」
 吉田が、目の前にカクテルを置いた。
 「夏のスノー・ホワイトってわけね。涼しそうね。これは牛乳の白さでしょう?」

 日未子は、カクテルに口をつけた。
 爽やかで、きりりとして、それでいて優しい甘さが広がる。
 「牛乳、ジン、檸檬ジュース、それに砂糖を少し入れて、炭酸で割ったものです。当店のオリジナルカクテルで、牛乳のカクテルと呼んでいますが、スノー・ホワイトもロマンチックでいいですね。白雪姫ですね」
 「それ、いい名前。それにしようよ。白雪姫のカクテル、スノー・ホワイト・カクテル。私が命名したことにしてね」
 「分かりました」吉田は、いつものやわらかい笑顔で答えた。
 吉田は、年齢は四十代後半だ。だ余ほど好きなのか、生き生きとしていて肌も艶々している。銀行で谷川に苛 められている薮内とは雲泥の差だ。
 どうしてバーテンダーになったのか、吉田から聞いたことがある。
 「大学生の時、パレスでアルバイトしていましてね。シェイカーを振るバーテンダーを見ていたのですよ。いいなぁってね。それで卒業すると同時に迷わずパレスホテルに就職しました。そして念願かなって、バーテンダーになったわけですが、はやもう二十五年が経ってしまいました」
 バーテンダーならどこのホテルでもよかったのですか、という日未子の少し意地悪な質問に、吉田は、「このパレスホテルのバーテンダーになりたかったのです」
 と誇らしげに答えた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は3月20日発売の「フィナンシャル ジャパン」5月号に掲載されています。

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2006.03.21

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第三章 炎のゆらめき(85)

 「吉田さん、いつものを作ってください」

 日未子はバーテンダーの吉田行生に言った。
 吉田は、「分かりました」と言い、トレードマークになっているふくよかな頬に笑みを浮かべた。
 日未子はパレスホテルのロイヤルバーのカウンターに肘を掛けて利洋を待っていた。バーはホテル一階のロイヤルラウンジの奥にある。
 午後六時四十分。利洋との待ち合わせ時間は、午後七時だ。まだ二十分ある。日未子は、いつも早く待ち合わせ場所に来てしまう自分を恨めしく思っていた。たまには利洋を待たせてみたい。
 吉田がリズミカルにシェイカーを振り始めた。この音を聞き、動きを眺めているだけでこのカウンターに座っている価値がある。温度管理されたケースから取り出された清潔なグラスをもう一度氷で冷やしている。
 そのグラスにシェイクされたカクテルが注ぎ込まれた。雪のように真っ白で、表面が少し泡立っている。いかにも女性的で優しそうなカクテルだ。
 「はい、出来上がりました」
 吉田が、目の前にカクテルを置いた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は3月20日発売の「フィナンシャル ジャパン」5月号に掲載されています。

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2006.03.20

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(84)

 久実はまるで自分が当事者かのような口ぶりで言った。
 「真面目で、粘り強いタイプがいけないよね。またそういうタイプって苛められやすいのよ」

 日未子は薮内をイメージしていた。
 「みなさんもストレスが溜まった時はおっしゃってください。ヨガで解消してさしあげますから」
 ひろみが微笑んだ。
 「それではみなさんのグラスにシングルモルトを注ぎます。よろしいですか」
 久実が急に真面目になってボトルを持ち上げて、グラスにウイスキーを注いだ。
 「それではシングルモルトが似合うようないい男に出会えますように。乾杯!」
 久実がグラスを高く掲げた。「乾杯」日未子は、玲奈とグラスを合わせた。開け放たれた窓から海風が吹き
込んできた。風が、日未子たちのストレスをどこかに運んでくれるような気がした。

 日未子は、もう一度、薮内を見た。相変わらず暗い顔で書類を見つめている。日未子は薮内がストレスに押し潰される前に自分でそれを解消してくれればいいと本気で願った。火柱なんて嫌だ。もしどうしようもなければ利洋に訴えようか…。
 「大江、部長が呼んでいるぞ。例の案件のことじゃないか」
 谷川が言った。振り向くと利洋と目が合った。日未子は身体の奥の方からジンと痺れるような感触が脳幹に伝わってくるのを感じた。急いで席を立ち、部長席へ急ぐ。利洋が私を見て、微笑んでいる。
 玲奈には悪いけれど、利洋は、きっとシングルモルトが似合う。小窓から海を眺めることが出来るカウンターだけのバーで、シングルモルトをグラスの中で弄びながら、私を口説く…。
 「部長、お呼びでしょうか」
 「大江君、例のクレジット会社の案件ね、ここに指示事項をメモっておいたからね」
 利洋が書類を渡した。日未子はうやうやしくそれを受け取る。バインダーに挟まれた書類にメモがついている。それには「今夜七時パレスホテル一階ロイヤルバー」と記してあった。日未子はそれを慌ててポケットに仕舞いこむ。利洋が微笑みながら片目をつぶる。日未子は、硬い顔のまま「分かりました」と低頭した。
 激しく心臓を揺さぶるような風が吹いた。その風は日未子にささやく。
 本当の幸せを見つけられそうですか?  

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されています。

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2006.03.17

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(83)

 「それでどうしたの?」
 日未子は訊いた。

 「調子が悪いから自宅で療養しているっていう話だったのよ。そうしたら突然、焼身自殺よ」
 玲奈が目を丸くして言った。
 「焼身自殺! 何よそれ!」
 久実がグラスを落としそうになった。
 「夜、彼、突然スーツを着たんだって。奥さんが、何処かへ行くの?って訊いたら銀行へ行くって明るい顔で答えたそうよ。でも時間はもう午後の八時でしょう? 周りは暗いし、変だなとは思ったけど、子供が泣き出したのでそっちに気を取られていたんだって…」
 玲奈の話に誰もが引き寄せられていた。突然、隣の人が家に飛び込んで来て、奥さん、庭に火柱が!って叫
んだそうよ」
 玲奈の目が真剣になった。ひろみが両手で口を押さえて、恐怖心から眉根を寄せた。
 「奥さんが慌てて外に飛び出すと、真っ暗な庭に真っ赤な火柱が一本、ごうごうという音を立てて燃え上がっていた。あなた!って声をかけら、火柱の中の黒い人影がゆらりと揺れたの。その時、奥さんにはご主人の笑顔がはっきりと見えたそうよ」
 「キャー! やめて、やめて」
 久実が身体を震わせて叫んだ。
 「玲奈、あなた、話、うますぎよ」
 日未子もすっかり顔を青ざめさせた。
 「これ作り話じゃないわよ。お葬式に行った人から聞いたんだからね」
 玲奈が言った。
 「銀行ってやっぱり凄いのね。早く辞めて良かったわ。うちなんか明るい、明るい、底抜けに明るい職場だからね」
 久実が、ウイスキーをグラスになみなみと注いだ。恐怖心なのだろうか、手が震えている。
 「残されたお子さんや奥さんがかわいそうですね。その上司の方はどうされたのですか?」
 ひろみが訊いた。
 「勿論、お葬式に行ったわよ。写真の前で長く手を合わせていたけどね。今でも同じポストにいるけれど、全く以前と変わらないわね。反省はしていないみたい」
 玲奈が大きくため息をついた。
 「うちの上司なんか、ストレスが溜まると、カラオケに行こうって誘ってくれてね。自分がガンガン歌いまくるんだ
から。ストレスの発散がうまくないとサラリーマンはやって行けないね」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.16

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(82)

 「うちにいる三十代の男たちもシングルモルトが似合うようなタイプならいいわね」
 玲奈がグラスを舐めるようにウイスキーを呑みながらしみじみと言った。

 「三十代はストレスの塊よ。リストラで人が減って、その上、成果主義でしょ。上司は時代遅れ。部下は時代を超越。その間で息切れ寸前なのが三十代なのよ。うつ病になる人も多いの。例えば、遅刻が目立つようになる、机が乱雑になる、要領が悪くなる、積極的な発言がなくなる、卑下し始める、付き合いが悪くなる、こんな兆候が出ると危ないって、読売ウイークリーに出ていたわよ」
 久実がウイスキーの中で氷を揺らした。琥珀色の氷が澄んだ音を立てた。
 「自殺したのよ…」
 玲奈が暗い顔で呟いた。
 「嫌だぁ。誰がですか?」
 ひろみが訊いた。
 「私と同じ部署の三十代の男性。奥さんと小さな子供さんがいたのよ」
 「かわいそう。原因は何? 苛め?」
 日未子は、その時、薮内を思い出した。玲奈が静かに頷いた。
 「私のチームじゃないけどね。証券会社から転職して来た人だったの。ところが思ったように成果が上がらなくてね。いつも暗い顔をしていたのよ。ところがその上司が酷い人でね。とにかく結果を出せ、出せってうるさいのよ。その人、三人くらいのチームを率いていたんだけれど、そのメンバーの分まで実績を上げようと必死になって働いてね。毎朝一番早く来て、一番遅く帰るみたいな…」
 玲奈は思い出すように目を細めた。
 「話したことあるの?」
 日未子は訊いた。
 「一度だけね。毎日大変ですねって言っただけなんだけど」
 玲奈が悲しそうな顔をした。
 「返事は?」
 「それが明るくてね。チームリーダーだから仕方ないですね、だって。笑顔でね」
 「笑顔?」
 「不思議なくらい明るい笑顔だったと記憶しているの。それからしばらくして銀行に来なくなったから…」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されています。

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2006.03.15

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(81)

 「ばれたか?」
 久実が舌を出した。
 「私、尊敬してました。凄い表現力だと思って…」

 ひろみが少し怒った。
 「許して。でもこの『原材料モルト』とだけ書いてあるのは、凄く潔くていいよね」
 久実は、グラスを口に運ぶ。目を細め、一旦ウイスキーを口に含んだ。香りを味わった後、呑んだ。
 「どう?」
 玲奈が訊いた。彼女の焼酎グラスは空だ。久実の回答次第ではシングルモルトを味わおうと待っている。
 「目の前に南アルプスが見える。雪を頂いた峰から清冽な水が光溢れる森の中を流れている。可憐な花が咲き、鹿が啼き、鳥が歌う…。これを男だけに独占させたくないって味ね」
 「私も呑もうっと」
 玲奈がグラスに注いだ。
 「ウイスキーの本場、スコットランドにはね、スペイサイド、ハイランド、ローランド、キャンベルタウン、アイラ、アイランズというそれぞれ特色のある生産地区分があるんだって。それぞれ味も香りも違うそうよ」
久実が言った。
 「それもサントリーの人の受け売り?」
 日未子がからかう。
 「バーテンダー一人だけのシックなバーのカウンターでシングルモルトウイスキーのグラスを傾けている男がいる。その隣には憂いを湛えた私がカクテルを呑んでいる。会話はない。だけど彼の優しさがぐんぐんと迫ってくる。私はいつの間にか彼の肩に身体を預け…」
 「玲奈さん…。大丈夫ですか?」
 ひろみがグラスを持ったまま、ぶつぶつ呟いている玲奈に声をかけた。
 「ウイスキーを呑んだら、口説かれている私の姿を想像したわ」
 玲奈は上気した顔で微笑んだ。
 「馬鹿ね…」
 日未子が笑った。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.14

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(80)

 「ところでシングルモルトって何?」
 「日未子、知らないの? ウイスキーはビールと同じで麦芽、すなわちモルトから作られるのよ」

 「えっ、ビールとウイスキーは原料が同じなの?」
 日未子はビールの入ったグラスを掲げた。
 「そうなの。ビールを蒸溜したらウイスキーになるのかな? 勿論、これは私の冗談だけどね。ウイスキーは麦芽だけのモルトウイスキーと麦芽以外の穀物を主原料にしたグレーンウイスキー、この二種類をブレンドしたブレンデッドウイスキーがあるのね」
 久実は、白州のボトルを指差した。
 誰もが久実の説明を聞いている。酒に関しては、その量と好奇心で久実の右に出る者はいない。
 「シングルモルトとは、単一の蒸溜所のモルトウイスキーのみを使ったものなのね。だからその蒸溜所の気候風土、製法などで個性が出てくるわけよ」
 「それじゃあこの白州というのはどんな個性なのですか」
 ひろみが訊いた。
 「ちょっと開けてみようか」
 久実がキャップを外した。玲奈がグラスを持って来る。琥珀色の液体がグラスに注がれる。
 「いい音ですね」
 ひろみが目を細める。お腹の中に響く、オペラで言えばバスの音域。
 久実がグラスを鼻先に運ぶ。
 「森の若葉や柑橘類の香り。すっきりとしたドライな味わい。軽やかなスモーキー香が切れ味のいい後味
にまで潜んでいる」
 久実がグラスを高く掲げて詠うように語った。
 「ねえ、久実。それってこのラベルに書いてある文句じゃないの」
 日未子が呆れたように言う。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.13

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(79)

 「サントリーの白州十二年物。シングルモルトウイスキーっていってね。とても高いのよ」
 久実が怒った。

 「でもお父さんの時代はウイスキーばかりで、どこに行ってもサントリーのウイスキーばかりだったって聞きますけど、今はちょっと落ち着いている感じですね」
 ひろみが、カルビ肉で頬を膨らませて言った。
 「そうね。ワインがブームになったり、焼酎が人気になったりしていろんなお酒が呑まれるようになったからかな」
 日未子が言った。
 「それはきっと、私たち女が仕事をして酒を呑むようになったからじゃないの? 昔は外で酒を呑むのは男ばかりでしょ。今は女が主人公みたいでしょ。そうするとちょっとおしゃれな雰囲気のワインとか、ジュースなんかで割ることの出来る焼酎とかが呑みやすいものね」
 久実が遅れを取りもどすかのようにロース肉を食べた。
 「女性の好みに男性が合わせますからね。一度銀座のクラブにヨガ教室の方に連れて行っていただきましたが、その時はウイスキーを呑んでおられる男性が多かったですものね」ひろみが言った。
 「へえ、ヨガの先生が銀座のクラブに行くんだ!」
 久実がわざとらしく驚いた。
 「その時、一度だけですよ。相手はおじいさん!」
 ひろみが頬を染めた。
 「怪しい!」
 玲奈がはしゃいだ。
 「これはサントリーの友達からせしめたんだけどね。彼は、ウイスキーはもう一回人気に火がつく、と言っていたな。サントリーも力を入れるらしいよ」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.10

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(78)

 薮内は三十六歳だ。結婚し、家族もいる。もう少し頑張れば谷川のように課長になれる。だが、会社内で最もストレスを感じる立場に違いない。

 さらにストレスを感じているのは谷川だろう。若くしてエリートと言われ、課長になった。ここから部長になるためには成果を上げて行かなくてはならない。それに加えて合併銀行内の人事にも精通してうまく立ち回らなくてはならないと考えているのだ。自分が生き残るためには何でもするぞという覚悟がなければいけない。彼のストレス発散が薮内に向かっているのだとしたら、こんな悲惨なことはない。

ストレス一杯の男たち…。玲奈と久実が日未子のマンションにやって来て焼肉パーティーをやったことがある。隣の部屋のひろみも参加して、大いに盛り上がったが、その時話題になったのが三十代の男性たちのストレスだった。きっかけは酒好きの久実が持参したシングルモルトウイスキーだった。

「焼肉には合わないかもしれないけどウイスキーを持って来たよ」
遅れて参加した久実が一本のスタイルのいいボトルをテーブルに置いた。透明感のあるグリーンの色をしている。
日未子は肉を焼き、玲奈とひろみは食べる一方だった。
「あれ、焼酎じゃないの?」
焼酎をロックで呑んでいた玲奈が言った。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.09

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(77)

 「はい」
 日未子が返事をした。神崎の咳払いの音が耳に入ってきた。

 日未子は、薮内を横目で見た。机の上には書類が整理されずに放置されている。薮内はその書類を机の右隅から左隅へとせっせと移動しているのだが、目的があってしているようには見えない。
 谷川の苛々した顔が視界に入ってくる。童顔なので余計に苛立ちがはっきりと分かる。おもちゃ売り場で希望通りにならなかった子供のような顔だ。机の上の書類の片づけなどをしていないで早く仕事に取り掛かれと言いたくて仕方がないのをじっと我慢しているのだ。
 薮内のワイシャツの襟に血が滲んでいる。朝、慌てて髭をそって怪我をしたのだろうか。なんとなく不潔な感じがする。初めて会った時の薮内は快活で明るくて判断力もあった。
ところが数ヶ月前に谷川が課長で来て以来、みるみる暗くなっていった。
机の上が乱雑になり、今日のようにワイシャツの襟が血で汚れていても気にしなくなってしまった。前は、細身の身体の通り几帳面だったような気がするが…。
 神崎の言う通りかもしれない。藪内が明るかったときの課長は興産銀行出身で、なにかと薮内に気を遣い相談していた。相談されていると、人間というものは、ますます元気になるものだ。ところが同じ系列の谷川が着任した途端に変わってしまった。最初は、明るかったのだが…。
どこかで谷川の逆鱗に触れてしまったのだろう。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.08

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(76)

 「神崎さん、先に帰るわね」
 日未子は、神崎の問いかけに答えずに足を速めた。しばらく歩き、気になって振り返ると神崎は見えなくなっていた。ちゃんと帰れたのだろうか? 本当に酔っていたのだろうか? 少し不安になった。

 「ばかばかしい」
 日未子は、思わず口に出して言った。神崎の別れ際の言葉を思い出して腹が立ったのだ。
 「何がセックスしようかよ! 女をそういう対象としてしか見ていないことがセクハラだってことをあいつ知らないのかしら。今度言ったらコンプライアンス部に言いつけてやる」
 日未子の声が大きかったのだろうか、近くにいた中年サラリーマンが驚いて振り返った。

 「どうしたの? こわい顔して?」
 谷川が訊いた。
 日未子は我に返った。神崎を一瞥した。机に顔を埋めるようにして書類を書いている。酔ってはいないようだ。
 「は、はい。すみません」
 日未子は慌てて意味不明な返事をした。
 「夏休み気分を早く抜けよ」
 谷川が言った。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.07

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(75)

 「そんなことないんじゃないの?」
 日未子は、神崎が酔っているとはいえ大日銀行を小ばかにした言い方をするので、少しむかついた。日未子は、自分の中にナショナリズム的な愛行心があったことに驚いた。

 「日未子は何も考えていないから分からないだけなのさ。谷川課長はよく分かっていて、とにかく山下部長に対するアピール?」
 「アピールだけを考えているってわけなの?」
 「そう、それでそれをあまり快く思わない薮内さんが目障りなのと、自分の派閥の人間を厳しくしているということで自分の公平さを売り込んでいるわけ。自分の出身銀行に厳しい奴だということで、人事に公平だと見えるのではないかと思っているわけよ。だから反対に興産銀行出身の中野さんには親切でしょう? 僕から見ると薮内さんの方が仕事出来ると思うけどね」
 神崎は同意を求めるように日未子を覗き込んだ。顔を近づけてきたので酒臭い息が顔にかかった。

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2006.03.06

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(74)

 「日未子はそんなに出身銀行にこだわっているのかい?」
 神崎が逆に質問してきた。

 「そんなこと気にしたこともないわ。だって神崎さんも興産銀行でしょう。だけど同期だという意識はあっても他の銀行だという意識はないわ」
 「それはありがたいね。同期だと思ってくれているんだ」
 「そりゃ思っているわよ。なにかと谷川課長も比較するしね」
 「谷川さんが日未子と俺とを比較しているのはね、俺のことを見ているよという彼なりのアプローチなわけ」
 神崎は、足もとをふらつかせながら歩いている。相当酔いが回っているようだ。
 「複雑ね。意味が分からないわ。なぜ私と神崎さんを比較することが、アプローチなわけ?」
 日未子は神崎のいつもの嫌味な雰囲気に苛々し始めた。
 「それはね、山下部長へのアプローチだよ」
 「それはアプローチじゃなくてアピールのことじゃないの?」
 「そんなことはどうでもいいや。だけどね、このミズナミ銀行の営業部における覇権は、今やホールセールに強い興産銀行が握っているわけですよ。担当役員、頭取、みんな興産銀行出身でしょう? 大日銀行側の役員はみなホールセールや投資銀行が分からないから、卑屈そうにしているでしょう」


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.03

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(73)

 しかし合併してみると、それまでの不安はどうでもよくなった。

 なぜなら日未子のような若手には合併しようがなにしようが、経営が不安定なより安定したほうがメリットがあるという単純なことが分かったからだ。特に大日派、興産派などと気にする必要もなかった。あえて言えばミズナミ派になればよかったのだ。
 ところがポストに就いている中堅や幹部行員たちはそれなりに大変だとは聞いていた。合併するとポストが二倍になるのではなく、一つのポストに二倍の対象者が生まれ、競争率が二倍になるからだ。
 営業三課で言えば、谷川、薮内、日未子が大日銀行出身、中野、菊池、神崎、小百合が興産銀行出身だ。部長の利洋も興産銀行出身だ。
 「同じ大日銀行出身者同士であんなにいがみ合うというか、苛めるというか、おかしくないかしら」
 日未子は神崎に言った。
 「日未子には分からないんだな。まだまだ人生の機微というものが…」
 神崎は薄笑いした。
 「私が大日銀行出身だからって教えないわけ」


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.02

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(72)

「合併のせい?」
日未子は、思わず聞き返してしまった。

 「そうだよ。谷川さんも大日銀行出身だからさ」
 ミズナミ銀行は合併銀行である。平成十五年三月に大日銀行と興産銀行が合併したのだ。大日銀行は、個人や中小企業などリテールに強く、興産銀行は、大企業や証券などホールセールに強いと言われ、理想の組み合わせなどともてはやされた。
 今時、合併銀行でないところを探すのが難しいくらいで、合併していない銀行は、バブル崩壊後の経済不況の中、もはや生き残っていない。だからもう合併だなんだと言っても珍しくもなんともないのだが、働いている行員たちにとっては大変な変化だ。
 日未子にとっても同じだった。日未子は不安で仕方がなかった。理想的なカップルだなどと評価されればされるほど不安になった。リテールに強い大日銀行がホールセールに強い興産銀行に呑み込まれるのではないかと勝手に心配したのだ。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.03.01

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(71)

 薮内が戻ってきた。
 「おはようございます」
 日未子が言った。薮内は日未子の隣に無言で座った。
 

 「おはようございます。夏休み、ありがとうございました」
 日未子は無理やり微笑んだ。薮内が、やっと顔を上げ、
 「おお、おはよう。楽しかった?」
 薮内は、日未子の顔を忘れてしまっていたかのように驚いてまじまじと見つめた。そして黒ずんだ顔に無理やり笑顔を作った。
 「お陰様で、とても…」
 「そうか。それはよかった」
 まるで心ここにあらずという状態だ。よほどこっぴどく叱られたに違いない。谷川が難しい顔でこちらに歩いて来る。朝から見たくはない顔だ。
 「おはようございます」
 日未子が挨拶をする。
 「おお、夏休みだったな。他のみんなも日未子さんみたいにちゃんと休めよ」
 谷川がガリ勉眼鏡の奥で目を光らせた。
 「課長、嫌味ですね」
 「嫌味じゃないよ。本音だよ。部下を休ませることの出来ない管理職は無能だって言われてしまうからね」
 「私は来週休みます」
 薮内がぽつりと言った。あまりにもか細い声だった。だが、声の瞬間目の前に座っている中野の身体が反応した。日未子もまじまじと薮内の顔を見てしまった。なんだか抗議の声に聞こえたからだ。「休みます」ではなく「コノヤロー、休んでやるぞ!」という怒りを含んでいるように感じられた。
 「いいよ、どうぞ休んでくれよ。子供さんが喜ぶぞ」
 谷川が口を歪めた。棘がある言い方だ。なぜ薮内が谷川のスケープゴートになってしまったのだろうか。以前、神崎が、酔った赤い目を向けて「合併のせいだよ」と言ったことを思い出した。課の呑み会の帰りだ。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されています。

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2006.02.28

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(70)

 谷川は四十歳で本店営業部の課長を任されただけあってエリートだ。顔つきは、ガリ勉眼鏡をかけたお坊ちゃんなのだが、すばしこくて抜け目がない。判断も早く、仕事の指示も早い。とは言っても「朝令暮改は世の常」というのが口癖で、上の方針が変われば躊躇なく前言を翻す。

 部下からは全く信頼がないが、上からは全幅の信頼を獲得しているという絶対的に出世するタイプなのだ。
 彼の欠点は、怒鳴るということだ。必ずスケープゴートを見つけては、怒鳴る。こうすることで課員に恐怖心が芽生え、自分に逆らわなくなると考えているのだろう。
 そのスケープゴートが薮内だ。薮内が評価されないと、相対的に中野の評価が上がってくる。谷川はその辺りをよく心得ていて、中野には課の運営などについて相談を持ちかけたりする。だから中野は谷川という人物に好感は抱いていないが、自分を評価してくれているために薮内に対する仕打ちには無関心を装っている。
 「沖縄は良かったな」
 日未子は、空席になっている薮内と谷川の席を見て、呟いた。
 「いつまでも夏休み気分でいると叱られるぞ」
 少し離れたところに座っている神崎が俯いたまま言った。
 嫌な奴。ちんすこう、あげないからね。日未子は、黙って神崎を睨んだ。
 部長の山下利洋はまだ現れない。早朝の会議にでも出ているのだろうか? 日未子は、利洋の机に目をやった。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されています。

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2006.02.27

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(69)

 「神崎さんはオーバーなんだから。私はパワハラなんてしませんよ」
 日未子は口を尖らせた。

 「あまり黒くなっていないじゃないか」
 菊池鉄平だ。菊池は日未子の一年先輩。明るくて前向きだ。ハンサムで日未子も素敵だなと思う時があるが、惜しむらくは既婚。子供はまだいないが、取引先の女性担当者と去年結婚した。携帯電話の待ち受け画で奥さんが笑っている。いつ画面が子供に変わるのだろう、とからかわれている。
 「気をつけていましたから」
 日未子は答えながらパソコンを起動させる。
 「中野さん、薮内さんは?」
 日未子は目の前に座っている中野に訊いた。中野は三十四歳。仕事は精力的にこなすのだが、外見は極めて老けている。典型的な中年太りになっていて、頭の毛も薄い。ところが独身で、密かに小百合を狙っているという噂がある。日未子が、そのことを小百合に確かめると「嫌だ!」の一言で片づけられてしまった。
 「課長と別室にいるよ。朝から叱られているんじゃないの」
 中野が、厚ぼったい瞼を引き上げるようにして、日未子を見つめた。
 「朝から嫌ですね」
 日未子は顔を顰めた。
 「仕方がないよ。薮内さんは要領が悪いからね」
 中野は、再び書類に目を落とした。薮内一馬は三十六歳。課の次席だ。真面目で我慢強い性格だ。細身で、黒っぽいスーツを着ている姿は典型的なサラリーマンという雰囲気だ。仕事は正確なのだが、手抜きが出来ないため少し遅い。そこをいつも課長の谷川信次に注意される。「遅いのは猿でも出来るぞ」という怒鳴り声が時々課の空気を乱すことがあった。その度に日未子は背中をビリビリと痺れさせて、俯くしかなかった。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.24

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(68)

 「ちんすこうよ」
 日未子は言った。

 「沖縄の代表的なお菓子ですね。私、大好きです」
 小百合は微笑んだ。
 「良かった。お土産というとそんなお菓子しか思いつかなかったの」
 「私も沖縄に行きたいな」
 「夏休みはどうするの?」
 「私、九月に取ります」
 「えっ、この暑い夏を休みなしで乗り切るわけ?」
 「頑張ります。夏休みシーズンを外す方が断然安いんですよ。それで香港に行こうかなと思っています」
 「香港? いいわね。独身はいつでも休むことが出来るというのがいいけど…。さすがに私は九月という期
末月に休むと叱られるわね」
 日未子は、ぺろりと舌を出した。
 「おはよう。日未子、沖縄は良かったか? いい男はいたのか?」
 神崎隆三が書類から顔を上げた。
 「それってセクハラにならないの?朝から嫌ね」
 「日未子にセクハラって言われたくないね。いつもパワハラされている身になってみろよ。ずっと沖縄に行ってくれていたらと思うよ、本気でね」
 神崎は、日未子と同期。独身だ。仕事は出来るのだが、ちょっと嫌味なところがある。同期だからだろうか、日未子をライバル視した言動が見られるのだ。日未子にしてみればライバル意識など持っていないので、彼の言葉が心に障ることがある。
 営業部には一般職と総合職という職種の区別がある。同じ女性でも日未子が営業担当なのに対して小百合が補助的な事務を担当しているのは、職種によるものだ。だが、総合職同士では男女の区別なく仕事を担当する。 そのため日未子と神崎は昇格・昇進でライバルになる。今のところ同じような序列ではあるが、いつ日未子が上司になってもおかしくない。
 その思いが「パワハラ」、すなわちパワーハラスメントという権力による苛めなどという言葉になったのだろう。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.23

ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(67)

 「まあね…。でも勝負土産はないの?」
 「勝負土産?」

 「これぞっていう人にあげるお土産よ」
 「ないわよ、そんなの。お土産はもらうものよ! お客様をお土産で釣ろうなんて魂胆が浅ましいわよ」
 日未子が笑って言った。
 「言ったわね!」
 玲奈が笑って、拳を振り上げた。
 「じゃあね! またね」
 日未子は、手を振ってエレベーター方向に急ぎ足で向かった。玲奈も手を振った。玲奈は一階が仕事スペース。日未子は三階だ。営業部のフロアに到着する。久しぶりに来ると空気が新鮮で、なんとなく緊張する。日未子が属する営業三課の課員たちはもう席について仕事をしている。時計を見る。午前八時二十分。休み明けはもう少し早く来るべきだったと少し後悔する。
 「おはよう」
 日未子は事務を担当している筒井小百合に声をかけた。
 「おはようございます」
 小百合は快活に返事をした。彼女は二十四歳。短大を卒業して、営業担当者の事務を補助する仕事をしている。まだ幼さが残るような顔立ちで、性格も穏やかなため、営業担当者から人気がある。勿論日未子にとっても課の中で唯一の年下だ。
 「これ、お土産よ。残業の時、みんなに配ってくれない?」
 日未子は、彼女にビニール袋に入った土産を渡した。
 「沖縄に行っておられたのですよね。ありがとうございます。中身は何ですか?」
 小百合は、ビニール袋を覗き込んだ。
 

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.22

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(66)

 皇居のほとりに堂々と聳え建つのがミズナミ銀行本店だ。日未子は、朝の空気を吸い、深く呼吸をする。
歩みは止めない。たくさんの人が流れるように建物の中に吸い込まれて行くからだ。その流れに棹さすわけにはいかない。

 「今日から、仕事モードに切り替えるのよ」
 日未子は、自分自身に呟く。
 「日未子、おはよう」
 この声は玲奈だ。
 「玲奈!」
 日未子は振り向いた。玲奈の笑顔があった。
 「なに深刻な顔してるの?」
 玲奈が笑う。
 「今日から仕事モードに頭を切り替えているのよ。うまくいかないけど」
 「ああ、嫌だな。休みが終わり、仕どうして休みが続いてくれないのかな」
 「休みが続くってことは、失業ってことじゃないの!」
 「そうね。仕方ない。また次の休みのために働きますか」
 玲奈は陽気に言い、通用口の警備員にも気さくに挨拶して通って行く。
 「玲奈は、とても楽しそうよ。仕事に来るのが…」
 「これよ」
 玲奈は沖縄土産の入った袋を高く掲げた。
 「お土産?」
 「泡盛なんだけどね。お客様に持って行くのよ。沖縄から帰って来たら、大口の契約をするって言われているの よ」
 「それでお土産持参で行くのか!大変ね」
 「日未子は?」
 「私は、これね…」
 日未子も土産袋を見せた。中身は「ちんすこう」という沖縄のビスケットみたいなものだ。
 「ちんすこう?」
 「営業課のみんなで食べるのにはこれが一番でしょう?」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.21

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(65)

 「アルファロメオ野郎さ」
 雅行は、目を逸らした。
 「山下さんのこと?」

 日未子は訊いた。ひろみは黙って赤ワインの満たされたグラスを揺らしていた。
 「他に誰がいる?アルファロメオに乗って、日未子を誘うような奴は…」
 「山下さんのことは何でもないわ。雅行に関係ないわ。単なる優しくて頼りがいのある上司よ」
 日未子は、怒ったように言った。
 「お優しいお気持ち? ぷっ、馬鹿な! まるで危うい目に遭ったことのない小娘の言い草だ。そのお優しいお気持ちとやら、お前、本当に信じておるのか? よし、それなら教えてやる。自分は赤ん坊だと思うがよろしい。贋金でしかない、その優しいお気持ちとやらを、本物の金と思い込んでいる始末なんだから。もっと自分を高く値踏みして、大事に優しく扱うがよい。さもないと――こう洒落のめしてばかりいたら洒落馬も、息切れしてしまうが――お優しい馬鹿娘をもって馬鹿をみるのは、このわしだからな」
 雅行は、突然、Gパンのお尻のポケットから岩波文庫の赤本『ハムレット』を取り出して読み始めた。シェイクスピア原作、野島秀勝訳だ。場面は、デンマーク王に仕える国務大臣ポローニアスが自分のかわいい娘、オフィーリアにハムレットとの交わりを諫める場面だ。
 「帰ろうか、ひろみちゃん」
 日未子は言った。ひろみは頷いた。
 「私、余計なおせっかいをしたみたいですね」ひろみは小さく舌を出した。
 「影? そうとも、みんな影法師さ、一時の気まぐれだ」
 雅行は、まだポローニアスの真似をしている。雅行も酔ったのだろうか。事情のわからない客からまばらな拍手が起きた。
 日未子は外に出た。
 「日未子さん、海の香りがしませんか」
 ひろみは目を閉じ、両手を頭の上で合わせ真っ直ぐに天に向かって伸ばした。そして左右に弧を描くようにゆっくりと広げた。呼吸を始めたのだ。ひろみの息を吐く長い音が聞こえる。
 「風が気持ちいいわね」
 日未子も両手を広げて深く息を吸い込み、そして出来るだけ長く吐いた。すると不思議なことに何もかもが混沌としていた心の中が徐々に整い始め、いつかきっと素直になれる、そんな気がしてきた。
 「なんだか走りたくない?」
 日未子はひろみに言った。
 「じゃあ、マンションまで駆け足ですよ」
 ひろみが微笑んだ。
 「負けないわよ」
 「負けません」
 「位置について、よーい、ドン」
 日未子が叫んだ。思い切り地面を蹴った。身体が宙に舞う。頬が風を切った。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.20

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(64)

 「雅行、ひろみちゃん…」

 二人が日未子を振り向く。そして微笑んだ。二人は肩を寄せ合って日未子を見つめている。日未子の心の底にざわざわとした風が起き、それはやがてくるくると舞いだし、小さな竜巻になった。つい先ほどひろみが雅行にキスをしたときに日未子の心に起こった竜巻と同じだ。なぜ、雅行がひろみと仲良くするだけで、心がコントロールを失うのだろうか。 まさか雅行に特別な感情を抱いているのだろうか。日未子は自分の心が理解できなくて、両手で胸を押さえ、うずくまった。
 「日未子、大丈夫か」
 雅行が、肩を揺すった。
 「ありがとう」
 日未子は、目を開けた。
 「突然、カウンターにうつ伏せになるんだもの。驚いたよ」
 「酔ったのかしらね。珍しく…」
 日未子は、両手で頬を撫でた。少し熱い。
 「私が、雅行さんのことを追及したから日未子さんの中でアルコールの巡りが急に良くなってしまったのでしょうか」
 ひろみが笑った。
 「そうよ。ひろみちゃんが変なことを言うからよ」
 日未子が眉根を寄せた。怒っているわけではない。顔は笑っていた。
 「ひろみちゃんの言ったこと、全く当たっていないというわけでもない」
 雅行が少し怖いような真面目な顔で日未子を見つめた。
 「どうしたの、雅行。真面目になって…」
 日未子は少し警戒気味に訊いた。
 「僕自身の日未子に対する気持ちがどんなものかは、まだはっきりとはわからない。しかし今日、ここで出会ったのは、僕がいつも日未子のことを考えている証だとは思う。それは気がかりなんだ。日未子とあいつのことがね」
 雅行は言葉を強くした。
 「あいつって?」
 日未子は、訊き返した。どういう答えが返ってくるかは分かっている。しかし訊き返してしまう自分がとても嫌だ。自分の口からは、その名前を出したくない。出せば否定ができない。でも雅行から出されれば否定ができるかもしれない。
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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.17

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(63)

 ひろみは赤ワインを追加した。
 「大丈夫?」
 日未子が心配そうに言った。

 「私が酔っていると心配しているでしょう。私は酔ってはいません。アシュタンガをやっていますと酔いもコントロールできるのです」
 「すごいね」
 雅行が感心したように言った。
 「お二人は魂が呼び合っていないのですか。私は何度もお二人にお会いして、いつもどうしてこの二人は魂の声の通りに動かないのだろうと不思議でした。ですから今夜は、ちょっと思い切りました」
 ひろみは新しくグラスに注がれた赤ワインを呑んだ。
 いつの間にか店内は客で一杯になっていた。一枚のカウンターを挟んで向かい合わせになりながら、思い思いの酒を楽しんでいる。ティンの名物つまみはイベリコ豚のサラミや茹でピーナツだ。どのグループの前にもそれらのつまみがあった。
 誰もが肩を触れ合うことを厭いもせずに話に夢中になりながら、酒を呑んでいる。人はバリアーを作りたくなるものだ。満員電車が不快なのはそのせいだ。自分が作ったバリアーを誰も認めず、めちゃくちゃに侵してくるから不快なのだ。彼らも自分が作ったバリアーが、誰にも理解されず、親たちが勝手に押し入ってくるから攻撃に転ずるのだ。ところが、このティンでは人同士のバリアーが消失してしまっている。もしあったとしても極めて低くなっているから、容易にお互いが行き来できる。だから隣の人と肩が触れ合っていても喧嘩にもならないし、不快にもならない。それは酒というものの力もあるが、ティンに満ちている空気が、人のバリアーをなくす不思議な力があるのだろう。
 客の一人が扉を開けた。日未子の頬を風が撫でた。
 「風が吹いている…」
 海からの風だ。日未子は、夜の浜辺を散歩している。足元を波が洗う。
 暗い海に波の先だけが白く輝き、まるで深呼吸のように一定のリズムを刻んで波の音が聞こえてくる…。
 人影が見える。それも二つ。日未子は目を凝らす。雲が割れ、月明かりが人影を照らす。その場所にだけスポットが当たったようになる。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


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2006.02.16

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(62)

 雅行が目を丸くする。
 「ヨガです。ヨガの本場を見たくて行きました」

 「そうか、ひろみちゃんはヨガの先生だったよね。こんな風に身体をクニャクニャにするんだ」
 雅行が、手を首の回りに回す。
 「ヨガは、身体をクニャクニャにするだけではありません。心地よく生きるためのものです」
 ひろみが反論した。
 「雅行、ひろみちゃんは、真面目にヨガに取り組んでいるんだから、からかうようなことを言っちゃだめよ」
 日未子が叱った。
 「ごめん」
 雅行は頭を下げた。
 「私のやっているのは、アシュタンガ・ヨガと呼ばれているものです」
 ひろみが雅行を見つめた。真剣になっている。
 「アシュタンガ?」
 雅行が戸惑いながら訊く。
 「アシュタンガはサンスクリット語で八本の枝ということです」
 「八本の枝?」
 「八つの規則ということでしょうが、第一がヤマで禁戒、すなわち人として絶対に守るべきこと、嘘をついたり、人を殺めたりしてはいけないことですね。第二がニヤマで勧戒、生活の中で守るべきこと、身の回りを清潔に保ったり、鍛錬したりすることです。第三がアサナで坐法、瞑想のためのポーズ、みんながヨガというとイメージする姿ですね。第四がプラーナヤマで調気、呼吸を通して気をコントロールすること、プラーナは生命エネルギーです。第五がプラティヤハーラで制感、感情をコントロールすること、自分の内面に集中します。第六がダーラナで凝念、対象に意識を集中すること、呼吸と視点だけに集中した状態になります。第七がディヤーナで静慮、瞑想状態のこと、集中が深まると、同時に色々なことが感じられます。第八がサマーディで三昧、至福の状態で宇宙と一体になった感覚になります…。だからヨガってテクニックではなくて生きることそのものです。わかってくれました?」
 「わかりました。まず人間として、生活者としてどうあるべきかというところから出発しているんだね」
 雅行は、ひろみに同意を求めた。
 「その通りです」
 ひろみは、感激したように雅行に飛びついた。雅行は驚いたが、ひろみは構わず、雅行の首に腕を回してぶら下がってしまった。
 「日未子さん、私、雅行さんのこういう素直なところがとても好きです」
 ひろみが日未子に言った。
 「ひろみちゃん、首が取れちゃうよ」
 雅行が苦しそうな顔をした。ひろみはぶら下がるのを止めて、足を床につけた。だが、首に回した腕だけは解こうとしない。
 「ひろみちゃん、酔ったの?」
 日未子は笑っていた。
 「酔ってはいません。心の中で思った通りのことを言いました」
 「ひろみちゃん、ありがとう。そろそろ腕を放してもらおうかな」
 雅行が、ひろみの腕を握って、放そうとした。
 「雅行さん、キスをしてもいいですか」
 ひろみは雅行を見つめた。
 「キス?」
 「ええ、キスです。嫌ですか?」
 「うん、まあ、嫌というわけではないけどね…」
 雅行は、困ったような顔で日未子を見た。日未子は、相変わらず笑っている。
 「日未子、なんとかしてくれよ」
 雅行が助けを求めた。
 「ひろみちゃん、雅行が困っているわよ。さあ、手を放して」
 日未子が笑みを浮かべながら言った。
 「私、ヨガをやっているでしょう。そうすると物事を素直に見るようになるのです。その素直な目で見ると、雅行さんは、私がキスをする対象ですね。それではキスをします」
 ひろみは自らに宣言すると、ちょっと唇を尖らせ、雅行の唇に向かって背を伸ばした。ひろみの唇が雅行の唇に触れた。 雅行は、目を大きく見開いたまま、日未子を見ていた。
 日未子の心の中に小さな竜巻のような風が起きた。その竜巻は、心の襞を震わせながら徐々に大きくなった。日未子は、身体と心が全て竜巻に巻き上げられそうになるのを恐れて、目を閉じた。
 やっとひろみが雅行から離れた。
 「ひろみちゃん、酔うとキス魔になるの?」
 雅行が、戸惑いながら訊いた。
 「そうじゃありません。雅行さんが好きなんです」
 ひろみは怒ったように言った。
 「ひろみちゃんは、自分の心に正直なのよ。好きなものは好きと言う。そこに余計な混ざりものは入っていないのよ。まるで風のように抵抗のない心の持ち主なの」
 日未子は言った。竜巻はいつの間にか消えていたが、心の中に竜巻の後の倒れた建物がいっぱいあるような気分だった。ひろみが戯れに雅行にキスしたくらいで、何を動揺しているの? ひろみはお酒を呑むといつだって陽気になるじゃない。今夜だってそのうちの一つ…。
 「風?」
 雅行は、まじまじとひろみを見つめて、唇をそっと指で触った。
 「私が何の抵抗もない心を持つ風なら、雅行さんは山ですね」
 ひろみは微笑んだ。
 「山? それはどういうこと?」
 雅行は聞き返した。
 「雅行さんは素直で、真面目で、自然そのものなのに日未子さんのことになると急に山のように動かなくなるんだから」
 ひろみは言った。
 「どうして僕が日未子のことで山になるって思うんだい。僕はいつだって自然に接しているよ」
 雅行が苦笑した。
 「雅行さんは日未子さんのことを好きなんでしょう? だったらもっと行動に移した方がいいと思います。動かざること山のごとし…」
 ひろみは言った。冗談ではない表情だ。
 ひろみは酔った勢いなのか、それとも彼女に別の意図があるのかわからない。だが、雅行の日未子に対す日未子には空気が妙に張り詰めていくような気がした。
 「僕と日未子は、そんなんじゃないの。好きとか嫌いとかいう関係じゃない」
 「そうよ、もう昔から雅行とは腐れ縁なんだから」
 日未子が言った。
 「ええ、わかっています。余計なお世話かもしれませんが、雅行さんも日未子さんもお互いが素直になって一度向き合ったらどうでしょうか。今夜もここに雅行さんが現れたというのは、偶然ではなくてお互いの心が会いたいと願っているから、ここに来てしまったのではないでしょうか」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.15

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(61)

 「やっぱり来たね」
 ティンのドアをあけると、いきなり雅行が現れた。いや、正確には店に現れたのは、日未子たちのほうだ。

 「ひろみちゃん久しぶり」
 「雅行さん、黒くなりましたね」
 「日未子と同じ沖縄焼けさ」
 雅行は、顔をつるりと撫でた。
 「素敵ですよ」
 ひろみが、笑みをこぼす。
 「それにしてもどうしたの?」
 日未子が訊いた。
 「みんなと別れて、麻布十番のアパートに荷物を入れてさ。さっそく仕事があったの。ちょっとした取材だけどね。それがこの近くだったんだ。時間もいいしさ、ティンに来れば、日未子もいるかと思ってね」
 雅行は、赤ワインを呑んでいた。
 「私たちは江戸家でちょっと腹ごしらえをしてきました」
 ひろみがお腹を摩った。
 「俺も、イカの丸焼き食いたかったな」
 雅行が、大げさに叫んだ。ティンは、tin。錫のことだ。店の隣に錫を使った作品を作る工房があるところから名づけられた。
 「私も赤ワインにしようかな」
 日未子は言った。
 「私も」
 ひろみが言った。
 「マスター、赤ワイン二つ。それにゆでピーナツも」
 雅行がマスターに告げる。カウンターの奥で、マスターが手を挙げる。
 「沖縄は楽しかったな」
 雅行がワインを呑んだ。
 「羨ましいです」
 ひろみが言った。
 「何が?」
 雅行が訊いた。
 「お二人が」
 ひろみが微笑んだ。ワインが運ばれてきた。日未子はワインを手に取った。
 「私たちが?」
 日未子は、首を傾げた。
 「そう。いつもご一緒だから」
 ひろみがワイングラスを顔の辺りまで掲げた。日未子も雅行もそれに倣う。
 「乾杯!」
 雅行が言った。
 「そんなに一緒かな?」
 日未子が、雅行の顔を見つめた。「だって沖縄にも一緒に行かれたのでしょう?」
 ひろみが訊いた。
 「まあ、それはそうだけど。そんなの珍しいよね、雅行?」
 「僕が誘ったのさ。沖縄に行かないかってね。こんどひろみちゃんも行こうよ」
 雅行が笑顔を浮かべる。
 「ぜひ誘ってください」
 ひろみが頭を下げた。
 「ひろみちゃんはインドに行ったことがあるのよ」
 日未子はワインを口に含んだ。香りが、身体の中に広がっていく。
 「インド? 凄い! 何で?」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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2006.02.14

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(60)

 「どんな風に身体が変化するの?」
 日未子は、興味深げな顔を向けた。

 「ヨガは見えない筋肉、インナーマッスルを刺激しますから、基礎代謝が上がって太りにくい身体になります。日未子さんは冷え症だったでしょう?」
 「そう、時々手足が冷たくて眠れなくなることもあるわ」
 「そんなのヨガですっきり治ります。新陳代謝がものすごく向上するからですね」
 「肩こりは?」
 「もうばっちりです。背骨や骨盤の歪みを矯正してくれますから、肩こりも治るんですよ。私の生徒さんから四十肩や五十肩が治ったって言われます」
 ひろみが微笑んだ。
 「四十肩? 五十肩? ひろみちゃん、私を幾つだと思っているの。二十九よ」
 日未子は、笑いながら睨んだ。
 「すみません」
 ひろみは頭をかいた。
 「私もヨガ、やってみようかな」
 日未子は、グラスを見つめながら言った。グラスの向こうにひろみの笑顔が見える。
 「ティンに行きます?」
 ひろみが言った。
 アトリエバー・ティンは馴染みのバーだ。月島には、深夜遅くまで営業をしているカウンターだけの立ち呑み形式のバーがある。ティンもその一つだ。酒を呑むのが辛ければ、コーヒーでもいい。気楽に、外の風を肌に感じながらグラスを傾けるのは、なんとも表現しがたい心地よさがある。
 「行こう!」
 日未子は、立ち上がった。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.13

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(59)

 ひろみはグラスの泡盛を呑み干した。日未子は黙ってそのグラスを取り上げ、新しく泡盛を注いだ。

 「僧侶が長い竹の棒を持って、お経を唱えながら、遺体の周りを回ります。竹の棒の先には油壺がぶら下げてあり、その中の油を遺体にかけるのです。そして火をつけます。薪が燃え、遺体が燃え始めます。何も気味悪くありませんし、臭いもありません。ガンジス河は、全く変わらずにゆったりと流れています。漣だけの海のようです」
 「荼毘に付した後はどうなるの?」
 「遺体は完全に灰になり、ガンジス河に流されるのです。母なるガンジスに戻され、また悠久の時へと命が還っていくのでしょうね。その時、ガンジス河から私に向かって風が吹いてきました。私の心と今、ガンジス河に還った心が触れ合ったような気がしました。全ては一つだと実感した瞬間です」
 ひろみは、目を細めた。
 「ひろみちゃんって哲学者ね」
 日未子は感心したように言った。
 「そんなたいそうなものじゃありませんよ。ただこれがヨガの精神かな?と思ったことは確かですね」
 「全ては一つね…」
 「私たちは自然の一部で、生きているというより自然の力で生かされているんだ。憂いも喜びも何もない。全ては一に還るとでも言うのでしょうか、循環しているから悩む必要もないと思いました」
 ひろみは、ロシアン春巻きを口にした。
 たちまち顔が歪む。力いっぱい目を閉じる。顔の真ん中から耳にかけて赤く染まっていく。
 「辛い!」
 大声で叫び、泡盛を流し込む。ますます喉が焼ける。
 「ヒー!」
 目を一杯に見開いている。涙が滲んでいる。
 「当たったわね」
 日未子は声に出して笑った。
 「当たっちゃいました」
 ひろみは、半分泣きそうな顔になった。
 「ひろみちゃんを見ていると、ヨガって素敵だなって思えてくるわ。とても自然だと思う」
 「ヨガをやっていると、何が自分に気持ち良くて、何が気持ち良くないのかがわかってくるのです。そうするととても生き方が楽になります。もし日未子さんから自然だと思われているとしたら、ヨガのせいでしょうね。勿論、ヨガは生き方ばかりでなく、美容にも良くて私の生徒はやはり女性が多いですね」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.10

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(58)

 「私は、風のエステです。風に身体を晒していると、自分が風になったみたいで癒されるんです」
 ひろみは言った。
 「ひろみちゃんって面白いことを言うよね。風のエステね…。気持ち良さそう」
 日未子は、グラスを傾けた。

 「私、それはインドで感じたんです。風のささやき…。身体の芯から癒してくれるんですよ」
 ひろみは遠くを見るような目をした。
 「ひろみちゃん、インドに行ったことがあるの?」
 日未子は驚いて訊いた。
 「アメリカに行ってヨガに興味を持ったのです。それでヨガといえばインドでしょう?」
 「そうね…。それでインドに行ったの? 凄い!」
 「何か目的があったわけではないのです。軽い気持ちで行きました。ジャイプールには風の宮殿というのがあるんですよ」
 「風の宮殿?」
 「ええ、小さな小窓のあいた壁のような宮殿が街の中に建っています。その建物は赤茶けているんですが、ピンク色に見えるんですよね」
 「なぜ風の宮殿というの?」
 「よく知りません。風が抜ける穴が無数に開いているからでしょうか」
 「行ってみたいな…」
 「ガンジス河の河辺で荼毘に付すんですよ」
 「荼毘? 火葬? 見たの?」
 日未子は、顔をしかめた。死体を焼くところを見るなんて…。
 「ヒンズー教の聖地ベナレスに行きました。ガンジス河に向かって石段が続いています。その石段を遺体を担いだ葬列が下りてきます。多くの人が泣きながら続きます。河辺には薪が高く積まれています。その薪の上に遺体を載せるのです」
 「そのまま?」「そうです。山で遭難したときに荼毘に付しますよね。あれと同じです。でも深刻さはないんです」
 「どういうこと?」
 「河辺には牛が寝ていますし、子供たちが遊んでいて、河の中では多くの人が沐浴しています。河辺にはあちこちで荼毘の煙が立ち上っていて、全てが自然なんです。最も悲しい死さえも自然の循環の一サイクルに過ぎない
と思えてしまうのです」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.09

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(57)

 ひろみがうっとりとグラスを顔の前にかざした。琥珀色の泡盛を通すと、ひろみの小麦色の肌が、一層艶やかに見える。
 「ひろみちゃんは、どこかで焼いたの」

 「これですか」
 ひろみがTシャツの胸元を引っ張る。
 日未子の目に小麦色の丸い乳房が飛び込んできた。思わず唾を飲み込む。
 同じ女性ながら美しいと思った。ひろみの輝くような小麦色の肌を見ていると日焼けを気にした自分が愚かで恥ずかしい。
 「スクーター焼けです」
 ひろみはこともなげに言った。
 「スクーター焼け?」
 日未子は、ひろみのあっけらかんとした言い方がおかしくて、笑ってしまった。
 「いつもスクーターで移動しているでしょう。それでこんなになってしまって…。日未子さん、沖縄に行かれたのにあまり黒くなっていないですね」
 「ちょっと気をつけたから。それにフェイシャルエステに行ったのよ」
 「エステですか? すっごい!」
 「ラ・プレリーっていってね、とても高級だった。ちょっと無理したかな」
 日未子は、自慢げに鼻を膨らませた。
 「気持ち良かったんでしょうね」
 ひろみは羨ましそうな目で日未子を見つめた。
 日未子は、八神圭子と一緒にエステをしたことを話した。ひろみは、ますます顔を輝かせた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.08

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(56)

 「お願い」
 「イカの丸焼き、島らっきょ、牛筋、刺身盛り合わせ、アジのなめろう…、そんなものかな」
 ひろみが店員の顔を見る。
 「ロシアン春巻きはどうですか」

 店員が勧めた。
 「ロシアン春巻き?」
 日未子が訊ねた。
 「五本の春巻きのうち、一本だけが辛いんです。楽しいですよ」
 「ロシアンルーレット!」
 ひろみが笑顔で言った。
 「じゃあ、それもお願い」
 日未子が頼んだ。
 「乾杯!」
 ひろみがジョッキを掲げた。
 「乾杯!」
 日未子もジョッキを持ち上げる。
 二つのジョッキがカチリと鳴った。
 「これおいしい!」
 「泡盛よ。沖縄のお酒。とってもなめらかでしょう」
 日未子が虚ろな目で言った。呑んでいるのはいつの間にか泡盛になっていた。
 この泡盛はタイ米から作る。焼酎は米や麦、さつまいもが主原料だが、これは泡盛の製法がタイから伝わったからだそうだ。 沖縄通の雅行が、自慢げに「泡盛ってシャム伝来なんだぞ」と酔っ払って話していた。シャムというのはタイのことだ。
 日未子のロックグラスを満たしているのは、『くら』。牧志公設市場の『丸天食堂』で呑んで以来、すっかりファンになった。この江戸家にも運よく『くら』があった。
 これも雅行の受け売りなのだが、この『くら』は、通常の甕貯蔵ではなく樫樽貯蔵で作るのだそうだ。だからウイスキーのような琥珀色の美しい泡盛になった。
 「これはオン・ザ・ロックが一番ですね」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.07

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(55)

 「でも大都会で子猫を見つけて、手を舐めてもらえるなんてこの月島だけの楽しみじゃない?」
 「そうですよ。他じゃ路地に迷い込んだら、レイプされますからね」
 ひろみがのぞけった。
 「おおげさね。行くわよ」

 日未子は、先を歩き出す。江戸家の看板が見えた。檜肌葺の屋根、縄のれんに提灯。鄙びた店構えだ。あの激しいバブルの時代をどうやって生き延びてきたのかと思ってしまう。
縄のれんをくぐる。店内にはもう
数組の客が入っていた。
 「いらっしゃーい」
 威勢のいい声がかかる。
 「二人!」
 ひろみが二本の指を高く掲げる。
 「こちらへどうそ」
 店員がテーブル席に案内してくれる。
 「とりあえず生二つね」
 日未子は、メニューを覗き込んでいるひろみを無視して言った。
 「何にしようかな」
 ひろみが考えている。
 「イカの丸焼きと島らっきょは頼んでね」
 「はいはい。島らっきょというのは沖縄ですね」
 「そうよ。ちょっと小ぶりのらっきょかな」
 「すっかり沖縄通ですね。でもあまり焼けていないみたいですね」
 「そうかな? そうでもないけど」日未子は、自分の顔を手で触る。
 手で触って日焼けの程度がわかることはないのだけれど。日焼けしないように気をつけた成果を誇ってもいいはずなのに、焼けていないと言われるとなんだか心外な気持ちになる。沖縄に行って焼けなかったなんてもったいない。そんな風に言われているような気がするのだ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.06

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(54)

 「こんな日が高いのに呑んでいいのかな」
 ひろみがくすりと笑みを洩らした。
 「何を言うの。呑みたいと言ったのはひろみちゃんでしょう」

 「すみません」
 ひろみは小さく頭を下げる。通りの左右には高いマンションもあれば、古い民家もある。民家と民家の間の路地にはたくさんの植木鉢が置かれ、緑の葉や色鮮やかな花が軒を彩っている。小さな幸せが並んでいる景色だ。
 「ミャー」
 急にひろみが、猫の鳴きまねをして路地に向かって走った。子猫だ。
 黒い子猫が、こちらを見ている。ひろみがかがんで手を差し出す。子猫がひろみの手を舐めた。
 「冷っこーい」
 ひろみが嬉しそうに声を上げた。
 「かわいい」
 日未子もひろみに並んでしゃがみこみ手を差し出す。子猫が今度は、日未子の手を舐める。
 「帰りもいるかな」
 「どうして?」
 「江戸家で魚を貰ってこようかなって思ったんです」
 「ひろみちゃん、野良猫じゃないわよ。ちゃんと首輪があるわ。勝手に餌をやると飼い主に怒られるわよ」
 「わかりました。それでは猫のお腹ではなくて自分のお腹を心配したいと思います」
 ひろみはおどけた調子で言い、立ち上がった。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.03

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(53)

 その居酒屋の一つが、マンションの近くにある江戸家だ。ここは築地の中卸で長く働いた主人が経営していて一階はカウンター六席、テーブル三卓、そして二階席という大して広くはない店だ。だが狭い店で肩を寄せ合い名物のイカの丸焼きを食べながら、酒を酌み交わすのはなかなか楽しい。日未子もひろみも直ぐに周りに溶け込んでしまい、ついつい長居をしてしまう。

 名物のイカの丸焼きは独特の癖になる味だ。ステンレスの小鉢に入ったタレとイカの丸焼きが一緒に出されてくる。そのタレにはイカのワタが溶け込んでいて、アミノ酸やうま味成分たっぷり。これにイカをくぐらせて食べると、思わず「うまい」と唸ってしまう。
 「考えただけで涎よだれがでるわ。早く行きましょう」
 日未子は、玄関に向かった。
 「待ってください」
 ひろみも急いで日未子の後に従った。
 エレベーターのドアが開くと、東京湾からの風が頬に当たった。沖縄の風とはまた違った爽やかさだ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.02

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(52)

 「沖縄もいいですが、イカの丸焼き食べたくありませんか」
 コーヒーを飲み終えたひろみが、日未子を窺うように見た。
 「江戸家!」

 日未子は叫んだ。それは佃二丁目にある居酒屋の名だ。日未子もひろみも常連だ。
 「食べたいでしょう?」
 「食べたい! 沖縄料理もいいけどイカの丸焼きもいい!」
 「今、六時ですから早く行かないと満員です」
 「ひろみちゃん、今日は仕事ないの?」
 「日未子さんが帰ってくると思って、ちゃんと空けてありますよ。まあ、そんなわけないか!」
 ひろみはおどけてみせた。
 「お姉さんをからかわないのよ」
 日未子は、指でひろみの額を押した。
 月島はもんじゃ焼きの町として有名だ。もんじゃストリートというもんじゃ焼き屋が並ぶ通りがあり、多の人が訪れる。しかしもう一つの顔がある。それはおいしい居酒屋が多い町でもあるのだ。

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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.02.01

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(51)

 日未子はマンションに着いた。リビングにバッグが置いてあった。コーヒーのいい香りがする。
 「ただいま」
 日未子は声をかけた。
 「今、コーヒーをいれますから」

 キッチンからひろみの声がした。
 「うれしい。荷物を片付けているからね」
 日未子は、バッグを自分の部屋に運び入れ、身体ごとベッドに飛び込むように投げ出した。スプリングが柔らかく受け止めてくれる。木綿の白いシーツが肌に優しい。腕と足を思いっきり伸ばしてみる。快感、という言葉が自然に口をついて出てくる。目を閉じると、沖縄の海が浮かんでくる。
 「明日から、仕事だわ」
 途端に憂鬱な気分が蘇ってくる。
 「コーヒー、出来ました」
 ひろみの声がする。
 「今、行くわ」
 日未子は、ベッドから飛び起きた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.01.31

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(50)

 「凄いわね」
 日未子が職業を聞いて、感心した表情を見せると、
 「肉体労働者かな?」
 と照れて見せた。

 七畳を日未子、六畳をひろみが使い、リビングは二人で共用することになった。家賃は、ひろみが十万円、日未子が十二万九千円とした。その他は全て折半。もし何か問題が起きたら、なんでも話し合うということで決まった。
 彼女は、日未子のように大企業に勤務しているわけではない。いわば自由業だ。自分の力で契約先を見つけ、どこへでもスクーターに乗って飛んでいく。その逞しさにきっといい影響をうけるに違いない。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。

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2006.01.30

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(49)

 ひろみに初めて会ったとき、「かわいい子だな」と思った。小柄だが、スタイルもよく、髪は豊かな栗毛。目が印象的だ。生き生きと輝いている。真っ直ぐに生きているという感じが、その目に表れていた。
 「とても素敵な栗毛ね。染めているの?」
 「これ地毛なんです。子供のころ、赤毛っていじめられました」

 ひろみは、窓から身体を乗り出すようにして、
 「風が来ますね。私、風が大好き」
と微笑んだ。
 日未子は、ひろみとなら上手くやっていけそうな気がした。
 「一緒に、住む?」
 「いいですか?」
 「いいわよ」
 日未子は、ひろみの手をしっかり握った。
 ひろみの仕事は、ヨガやエアロビクスを教えるインストラクターだ。
 高校を卒業して、しばらく普通のOLをやっていたが、飽き足らなくなった。その時出会ったのがエアロビクスだった。ひろみは、早速本場アメリカへの留学を決意した。英語も全くわからなかったが、情熱だけが頼りだった。留学期間は一年間。カルフォルニアにある養成学校に通った。そこではヨガも学んだ。そして今では都内の幾つかのスタジオで教えるまでになった。年齢は二十六歳。
 日未子より三つ年下だ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2006年1月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されております。

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2006.01.27

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(48)

 それは佃にあった。リバーシティ21イーストタワーズ10号棟1514号室。UR賃貸の女性担当者に案内されたが、日未子はたちまち気に入った。窓からは住吉神社の森やその向こうを流れる隅田川、佃大橋を眺めることが出来る。

 玄関は二つ。中に入ると、右にお風呂。これは共用する。部屋は右から六畳、九畳、七畳の三つ。真ん中の九畳がリビングの2LDKタイプ。広さは73平方メートル。どういう具合にシェアするかにもよるが、各部屋にはきちんとドアがついており、プライバシー保護は万全だ。家賃229,000円、共益費8,000円。日未子は、即座にここに決めた。
 入居して日未子がとった行動は、ネットでシェアの相手を見つけることだった。ネットにはルームシェアの掲示板がある。そこにはシェア相手を見つけたいという多くの書きこみがある。そこに日未子も掲示を出した。
 「女性の方お願いします」と女性限定にして、部屋の詳細を魅力たっぷりに書いた。肝心の家賃などは折半としたが、相談に応じると条件をつけた。
 そこに申し込んできたのがひろみだった。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2006年1月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されております。

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2006.01.26

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(47)

 月島や佃には多くの高層マンションが建っている。その中にUR賃貸住宅がある。このUR賃貸住宅とは、二〇〇四年に旧都市基盤整備公団と旧地域振興整備公団が統合して「独立行政法人都市再生機構」となったが、この英文名を略して「UR」と呼んでいるのだ。

 ここがいいのは敷金こそ月額家賃の三ヶ月分が必要だが、礼金や紹介料などが要らないことだ。それに日未子の希望をズバリ叶えるかのような「ハウスシェアリング制度」もある。その説明によると「首都圏約六万戸のUR賃貸住宅において親族以外の方とお住まいいただける制度を新設しました」とある。早速日未子は、インターネッ
トで物件情報を検索した。
 日未子が、ネットで見つけたのは玄関が二つある物件だった。あまり見たことのない構造だ。でもこれなら確実にお互いのプライベートを守りながら二人で生活できる。日未子は、その物件を実際に見ようと月島に向かった。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


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2006.01.25

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(46)

 ひろみは、日未子の荷物を彼女の肩から外そうとした。
 「えっ、運んでくれるの?」
 「勿論です。荷物だけ、部屋に運んでおきますから、ゆっくり帰って来てください」
 ひろみは、荷物を荷台に積んだ。
 

 「助かるわ。ありがとう」
 「それじゃあ、後で」
 ひろみは、再びスクーターに跨り、エンジンをかけた。ヘルメットを被そうとした。
 「えっ、運んでくれるの?」
 「勿論です。荷物だけ、部屋に運んでおきますから、ゆっくり帰って来てください」
 ひろみは、荷物を荷台に積んだ。
 「助かるわ。ありがとう」
 「それじゃあ、後で」
 ひろみは、再びスクーターに跨り、エンジンをかけた。ヘルメットを被り、軽く手を挙げると走って行った。
 「風のよう…」
 日未子は、ひろみが走り去って行く後姿を眺めていた。
 ひろみと日未子は同じマンションに住んでいる。一つの部屋をシェアして住んでいるルームメイトだった。
 日未子が一人で暮すと言い出したとき、父母が猛烈に反対した。なぜ、女の子が一人で暮す必要があるの
か? 悪い虫がつく、つかなくても疑われるなどなど。そこで日未子は、ルームメイトと一緒に住むという条件で家を出た。
 住む場所は、月島と決めていた。 ミズナミ銀行本店のある内幸町や銀座とも近い。それでいて家賃が比較的安く、居酒屋やしゃれたバーなども多いところが気に入った。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


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2006.01.24

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第二章 風のささやき(45)

 ようやく着いた。日未子は有楽町線の月島駅の階段を登りきったところで一息入れた。
 荷物を詰め込んだバッグの重みで肩紐が食い込んでくる。だが、沖縄の海の開放感を思い浮かべると、それさえも心地よく感じられる。佃の方角に日未子が住むリバーシティ21の白い棟が見える。彼女は、荷物をもう一度担ぎ直すと歩き始めた。

 「日未子さん!」
 後ろから呼び止める声が聞こえた。
 もう目の前に相生橋というところまで来た時だ。その橋の手前を左に曲がれば、目指す我が家だ。
 日未子は振り返った。ひろみだ。ヘルメットを被って顔は見えないが、新鮮な若葉の色の50ccスクーターホンダバイトは、ひろみの愛車だ。彼女は、スクーターのエンジンを思いっきりふかしてこちらに向かって走ってくる。日未子は、顔中を笑顔にして、手を振った。
 ひろみがスクーターを止めた。バイクと同じ色のヘルメットを脱ぐと柔らかな栗毛がはらりと飛び出してきた。
 「おかえりなさい」
 ひろみが微笑む。
 「ただいま」
 日未子も微笑む。東京湾に流れこんでいる隅田川の上を吹く風がひろみの栗毛を優しく撫でていく。
 「沖縄、どうでした?」
 「素敵だったわよ」
 「いっぱい、お話、聞かせてください。さあ、荷物を載せてください」


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」「円満退社」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2006年1月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されております。

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2006.01.23

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(44)

 「隆りゅうさん、ビール追加」
 雅行が大きな声を上げる。「さあさ、イカ墨の沖縄そばだよ」
 隆さんと呼ばれるマスターが真っ黒なそばを運んできた。名物のイカ墨そばだ。具材にはナカミーという豚の内臓がたっぷりと入っている。見るからにボリューム満点だ。

 「はい、ビール」
 由美子さんがビールを両手に持って運んで来る。
 ジョッキが白く凍っている。
 「このそばいけるな!」
 人見透がうまそうにそばを啜る。圭子の夫で、サッカーの記事に定評がある気鋭のスポーツジャーナリストだ。 でも日未子からは藍色の甚平を着込んだ優しそうな小父さんに見える。とても気さくだ。
 「私、泡盛頂戴! ロックでね」
 玲奈が空になったグラスを高く掲げる。
 「はいはい」
 由美子さんが玲奈からグラスを取り上げる。
 由美子さんは、くるくるとよく動く可愛い目をした女性で、二十歳くらいだろうか。隆さんが経営する牧志公設市場内の丸天食堂で夏の間だけアルバイトをしている。
 「ヘリオス酒造のくらの古酒がおいしいぞ。飲んでみろ」
 隆さんが怒鳴るように言った。
 「飲む!」
 玲奈が叫んだ。
 「私も、くらを頂戴!」
 日未子も声をあげた。
 「楽しい店よね」
 圭子が、ラフテーを摘みにビールを飲みながら、日未子に囁いた。
 「もっとしゃれた店を雅行が用意するかと思っていたのですが」
 日未子は、申し訳なさそうに軽く低頭した。
 「何を言っているの。私も、彼もこういう雰囲気は大好きなのよ。特に彼なんか新橋のガード下にある沖縄料理屋『なんくるないさ』で朝まで飲んでいるんだから」
 圭子はおおらかに笑ってビールを飲んだ。気取らない人だとますます日未子は彼女を尊敬した。
 丸天食堂は、市場の通路の脇のカウンターだけの沖縄そばを中心とした居酒屋だ。客が座れる場所としては、カウンターのほかにはコンクリートの狭い通路にテーブルと長椅子が置いてある。だが、それは食堂の物ではない。客が勝手にそれらを持って来て、そこで食事をしているのだ。
 隆さんは、牧志公設市場の食堂の料理人を長くやっていたが、独立してこの市場の通路に店を開いた。沖縄では狭い通路のことをスージ小グワというが、まさにスージ小の居酒屋だ。
 特にうまいのはナカミーだと雅行が言った。ここのナカミー汁を食べれば、他所では食べられないと雅行はぞっこんほれ込んでいる。沖縄に来るたびに、ここに立ち寄っている間に、すっかり隆さんと意気投合したらしい。
 「日未子に隆さんを紹介したかったんだ」
 雅行は、店に着いたときに言った。その言葉を受けて、隆さんは顔中をほころばせて「メンソーレ」と日未
子に大きな声で呼びかけた。
 隆さんの笑顔を見た、それだけで日未子は雅行が何故この場所を好きなのかが分かった気がした。本当に
警戒心なく寛げるのだ。
 「しかし日未子が、八神さんと知り合うとはなあ。俺、ライバル番組作っているものね。でも美人だよなぁ」
 雅行がおどけた調子で言った。
 「雅行君、お手柔らかにね」
 圭子が笑って応じた。
 「彼、酔っ払いですみません」
 日未子は赤面して、また謝った。
 「いい人じゃない。彼、日未子さんの恋人?」
 「そんなんじゃないんです。友達です」
 「そう、大事にしなくちゃね。日未子さん二十九歳だと言ったわよね。今からが一番迷う年齢なのよ。仕事か、結婚かってね」
 「その通りです」
 横から玲奈が割り込んできた。少し顔が赤い。
 日未子は黙って圭子の次の言葉を待った。
 「でも絶対にこれだけは言えるわよ。結婚に逃げるなってね」
 圭子が微笑した。
 「結婚に逃げるな、ですか」
 日未子と玲奈が口を揃えた。
 「私も迷ったわ。女性アナウンサーという職業はちやほやしてもらえる時間が短いからね。でも結論は結婚
に逃げずにやれることはなんでもやろう。結婚もその一つだ。そう考えたの。あなた方も逃げると負けよ」
 圭子が微笑んだ。
 「強いですね。そんなに強くなれるかしら」
 玲奈が呟いた。
 「結婚を逃げ道にしてしまいがちですものね。良く考えてみます」
 日未子は圭子の目を見つめた。携帯電話が鳴った。メールだ。利洋からだ。開封した。
 『沖縄はどうですか。エンジョイしていますか。東京は沖縄以上に暑い日々です。帰って来たら、冷たいビールとおいしい食事で沖縄の話をたっぷり聞かせてください。楽しみにしています』
 利洋とはどうなるのだろう。少し逃げたい気持ちもある。
 「日未子! 飲んでるか!」
 雅行が、酔ってコンクリートの通路に寝転がってしまった。
 「飲んでるわよ」
 日未子は、持っていた泡盛グラスを高く掲げた。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.20

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(43)

 日未子は夢見心地だった。エステティシャンのなんとも表現のしようのないほどの滑らかな指の動きに、
全身の力が抜けうっとりしてしまった。特に首筋から顎、頬にかけてのマッサージがついつい眠りに陥って
しまうほどの気分のよさだ。

 日未子はレギュラーテラピー、六十分一万二千円を頼んだ。圭子は、ボディとフェイスの両方のラ・プレリー・ラグジュアリーコース、一八○分五万五千円を選択した。
 「ホテル代より高いわね。でもリゾートに来れば、最高のサービスを受けるのは大切なのよ。仕事にも役立つわ」
 圭子は泰然と微笑した。さすがにプロだ。日未子は感動した。それよりもなによりも八神圭子と同じエステルームでサービスを受けているという現実が信じられない気分だった。
 「どう、いい気分?」
 「ええ、素晴らしいです」
 「テレビって肌荒れ、疲れ、精神的な気分の落ち込み、なんでも残酷に映し出してしまうのよ。それに加えて女性キャスターには視聴者はことのほかうるさくてね。やれ今日の衣装はどうだった、似合っていた、似合っていなかった、昨日は飲みすぎたでしょう? 眠そうだったですよと意見が一杯くるの。女性視聴者だけではなくて、男性からも来るのよ。それに反応しているだけでもストレスになるわ」
 圭子は、目を閉じたまま話した。
 「大変なのですね」
 日未子は同情を込めた。
 「あなたはどこに勤めているの?」
 「ミズナミ銀行の営業部なんです。これでも結構大きな企業を担当しています」
 ちょっと誇らしげに言った。
 「メガバンクじゃない。たいしたものね」
 圭子が見直したというように目を開けて、日未子を見た。
 日未子と視線が合った。日未子は、この機会にもっと圭子からいろいろなことを聞きたいと思った。ダメモト、という言葉が浮かんだ。
 「八神さん、もし今夜ご予定がなければ私たちと一緒に食事していただけませんか。沖縄に詳しい友達がいて、おいしくて安い場所を探してくれるはずなんです」
 日未子は思い切って言った。
 「楽しそうね。主人も一緒でいい?」
 圭子は微笑した。
 「勿論、お願いします」
 日未子は弾んだ声で言った。
 「じゃあ、決まりね。後で連絡して頂戴ね」
 圭子は、再び目を閉じた。眠るつもりなのだろう。日未子は、気分が高揚して眠れそうにない。それでも目を閉じた。エステティシャンの指が滑らかに動く。目を閉じて、指の動きを感じていると意識が途切れ、途切れになり、いつしか眠りに落ちてしまった。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.19

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(42)

 八神圭子だ…。
 船で少しだけ姿を見たフリーアナウンサーの八神圭子が隣にいる。日未子は、心臓がドキリと大きく打った。
同じホテルだったのだ。
 彼女は、読んでいた本を横に置くとすっと立ち上がった。日未子は、その姿をため息が出るほど憧れの思いを抱いて眺めた。

 さすがに羨ましいほどのスタイルだ。彼女はシンクロナイズドスイミングをしていたと何かの記事で読んだことがある。あの均整のとれた身体は水泳の賜物なのだろうか。日未子には、彼女が海に相応しい女性に思えた。
 圭子は、日未子の視線など気にせずプールに入り、泳ぎ始めた。あまりじっと見つめているのもおかしいとは思ったが、どうしてもその泳ぎが目が留まってしまう。
 お話をしてみようか、どうしようか、プライベートな時間だから無視されるかも…。
 日未子は、彼女がプールから上がってきたら声をかけようと決めた。
心臓が大きく音を立てている。せっかくゆっくりとボサノバのリズムに身体を預けていたのに、気分はロックになってしまった。
 圭子がプールから上がってきた。日未子の正面に向かって歩いてくる。話しかけようか、止めようか。日未子は、焦りながら圭子を見ていた。
 「一人なの?」
 圭子がデッキ・チェアに置いたバスタオルで髪の毛を拭きながら、日未子に話しかけてきた。それも微笑み付きだ。
 ドキン!日未子は、顔が火照ってどうしようもない。憧れの八神圭子が、とつぜん話しかけてきたのだ。
 「友達、ええ女友達と一緒に」
 日未子はようやく答えた。
 「沖縄はいいわね」
 圭子は、青空を見上げた。
 「はい。番組が終わって来られたのですか」
 「夫と二人でね。彼は部屋で原稿を書いているわ」
 いたずらっぽく笑った。
 「私、『三十路の手習い』、読みました。とても素敵だなと思いました」
 日未子は、堅い口調で言った。
 「あら、嬉しいわ。少しは参考になったかしら」
 圭子は嬉しそうな笑みを浮かべた。
 「とても。私ももう直ぐ三十路なものですから」
 「あら、そんな風には見えないわね」
 「ありがとうございます。私、海亀、見ました」
 「ダイビングをしたの?」
 「ええ、八神さんと同じ船でした」
 「あら、気づかなくてすみません。
 海亀、私に似ているって言われるのよ」圭子が日未子に顔を向けた。
 「本当ですか? 私も海亀に似ていると言われます」
 日未子が答えた。
 「お互い、海亀なのね」
 圭子が声に出して笑った。
 なんて軽やかであっさりとした人なのだろう。ボーイッシュと言っていいくらいだ。外見はとても女性的なのに内面は男性的なのかもしれない。やはりプロとして厳しいマスコミで生きるには、こうでなくてはならない。
 「あなた、エステに行かない」
 「エステですか」
 「たっぷり日焼けした後は、エステで肌を労っておかなくては、気がついたらおばあさんみたいになるわよ」
 圭子がウインクをした。
 日未子は、デッキ・チェアから飛び起きて、
 「行きます!」
 と弾んだ声を出した。
 「ここのホテルはね。ラ・プレリーというスイスの有名なアンチエイジングの化粧品を使ったエステなの。まだあなたには早いかも知れないけど体験してみる?」
 「みます!」
 日未子は料金のことが頭に浮かんだが、八神圭子から誘われた興奮が勝っていた。
 ラ・プレリーって化粧水だけでも二万円以上する高級品じゃないの?それを使ったエステって、どれくら
いだろう…。ええい、いいやどうせ旅行だもの!
 圭子がバスローブを羽織って歩き始めた。日未子もその後に従った。足が小躍りしている。
 八神圭子と一緒にエステルームで話が出来る。考えただけでも嬉しさがこみ上げてきた。玲奈に自慢しよう。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.18

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(41)

 ウエイターがグラスとペットボトルに入ったミネラルウオーターを運んできた。ボトルの表面の水滴が冷たそうだ。日未子はさっそくキャップを取り外して、グラスに注ぐ。
 一気にミネラルウオーターを飲んだ。爽やかな冷たさが喉から全身に行き渡る。大きく息をする。身体に溜まった悪いガスが全部でてしまう心地よさだ。

 持ってきたCDウオークマンのイヤホーンを耳に当てる。本当は、iPodを買いたいのだけれどもCDが無駄になってしまうのがもったいなくて使い続けている。
「イパネマの娘」のなんとなくアンニュイで、それでいて軽快なボサノバのリズムが聞こえてくる。
CDのジャケットを見る。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロのイパネマ海岸の景色だ。青い空と海。でもどこか寂しげでもの憂げだ…。


 日未子は目を閉じてうとうととしてしまった。あまりにもボサノバのリズムが心地よかったためだ。
 ふと人の気配がして、薄く目を開けた。となりのデッキ・チェアに誰か来たようだ。ぼんやりとした意識で隣を見た。途端に、意識がはっきりして、目が大きく開いた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.17

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(40)

 日未子は、水着にバスローブ姿でプールサイドに立った。
 プールはそれほど大きくはない。水は青い空を映して青く澄んでいた。

 プールには幼い子供を遊ばせている夫婦がいた。女の子だろうか。小さな浮き輪に掴まって、一生懸命足を
ばたつかせている。彼女の側には父親が監視役として立っている。母親は、浮き輪をそっと背後から押して
いた。子供の笑い声と足が水を叩く音が響いている。
 プールサイドには白い布を張ったデッキ・チェアが数台並べてあった。プールで遊んでいる家族が二台を使っているだけだ。まだ十分に余裕がある。
 日未子は、大きな白い日傘で覆われたデッキ・チェアを選んでバスローブを脱いだ。
 大きく伸びをして身体をチェアに横たえる。プールに入る考えは無い。日焼け止めを塗って、綺麗に焼けようと思っているだけだ。普段、東京のオフィスでは太陽に当たることはない。日焼けは、皮膚がんになるという説を声高に唱える人がいるけれど、夏、沖縄とくればこんがりと焼くしかないでしょう。
 ウエイターがやってきた。何か注文をしなければならない。ミネラルウオーターを頼んだ。フルーツ山盛りの南国風ソーダはやっぱり止めた。ちょっと子供っぽく過ぎるかなと思ったのだ。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.16

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(39)

 日未子が玲奈を同意を求めるような目で見つめた。
 「でも雅行は日未子のことを大事に思っているような気がする。日未子は、雅行の存在を当然のように思っているけど彼はずっと日未子を見守り続けている…。早く分かってあげないと、どこかに行ってしまうわよ」
 玲奈は真面目な顔で言った。

 「ばか。そんなんじゃないわよ」
 日未子は、即座に否定して、指先で玲奈の額をつついた。 玲奈の雅行に対する観察は、間違っていないと日未子も思う。自分でも雅行のことを嫌いではない。好きだと思う。でも情熱が湧き上がるかというと、そうではないところが問題なのだ。雅行と一緒にいると、雅行の存在さえ感じなくなるほど和んでしまう。男と女がいて、それはおかしい感覚だという人もいるだろう。でもそういう関係があってもいい。
 そう日未子は思っていた…。
 「じゃあ、私、行くわね」
 玲奈がバッグを掴んだ。
 「気をつけてね」
 日未子は言った。ドアが閉まった。音を聞いた瞬間に、寂しさが込み上げてきた。玲奈が羨ましいと思った。自分でさっさと決め、さっさと行動するという彼女の潔さがいい。それに比べるといつでも何かを迷っている自分はなんだか情けなくなってくる。
 「さて、どうするか」
 日未子は自分を鼓舞するように言った。そして再び窓から外を眺めた。真夏の光が容赦なく降り注いでいる。
 「そうだ。プールで日光浴しよう。玲奈みたいにたっぷりと日焼け止めを塗って…」
 日未子は、優雅にプールサイドのデッキ・チェアに寝そべって、フルーツが山盛りになったソーダ水を飲んでいる姿を想像した。
 「また水着の跡がくっきりするかしら…」
 日未子は鮮やかな水着の跡をイメージした。仕方がないと思った。沖縄に来たのだから、日焼けは当然じ
ゃない。ちゃんと手入れさえすればいいのよ。自分に言い聞かせた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.13

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(38)

 玲奈は、美ら海水族館に行くと言った。国頭郡本部町の海洋博公園内にある水族館だ。
 「マンタが見たいの」
 玲奈は目を細めた。

 美ら海水族館は世界一大きなアクリル製の水槽に、ジンベイザメとマンタ(オニイトマキエイ)を複数飼育していることで知られている。海の中さながらに彼らの泳ぐ様子を見ることができる雄大さが売り物なのだ。
 「ここから水族館までは相当あるわよ」
 「レンタカーを借りるからいいわ。日未子も一緒に行く?」
 「遠慮しとく。ここでホテルライフを楽しんでいるわ」
 「じゃあ、一人で行くね。夜は雅行たちと合流でしょ。連絡を待っていればいいのね」
 玲奈は美人で知的だ。普通は非活動的でもいいのに活動的だ。ちょっとしたパーフェクトウーマンなのかも?
 「今日も天気はよさそうね」
 日未子は窓から外を眺めた。
 「雅行は今日も潜ると言っていたけれど、ノリちゃんといい関係なのじゃないの?」
 玲奈が笑いをかみ殺した。
 「ノリちゃんは優しそうだし、年上だし…。最近、甘えられて優しくしてもらえるからって年上の女性と結婚する男性が増えているらしいわ」
 「私たちって子供の頃から、男女同じように教育されたでしょう。だから同級生には君づけで呼ぶし、いつも命令調なのよね。だから同世代の男性のことを頼りなく見えてしまったりするから、彼らにとって私たちはあまり魅力的な存在じゃないのかもしれないわね」
 「仕事上のパートナーとしてならいいのかもしれないけれど」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2006.01.12

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(37)

 「ガンマ、あそこのポーチに入れていたわよ」
 日未子が洗面台の横に作られた棚を指差した。そこに玲奈のポーチがあった。
 「ありがとう。思い出したわ。あそこにしまっていたんだった…」

 玲奈がバスから出た。彼女の白い身体の上で、水滴が弾けて踊っている。バスタオルで胸から臀部までをくるりと包んだ。そしてその上にバスローブを羽織った。
 玲奈は洗面台に行き、じっと鏡を見つめていたが、ポーチからガンマの包みを取り出した。水道の蛇口を捻った。水が勢いよく飛び出す。コップに水を注いだ。おもむろにガンマの袋を裂いて、錠剤をコップの水と一緒に飲んだ。
 再び鏡を見つめている。サプリメント愛用者は、使用前、使用後の自分の肌の張りなどをチェックする性癖があるのだろうか。
 「コーヒー、用意しておくわよ」玲奈が振り向いて明るく言った。
 サプリメントの効果なのだろうか。生き生きとした顔を日未子に向けた。 いつでも活動準備完了といった様子だ。
 「ありがとう。ブラックでね」
 日未子は、バスに湯を注ぎ足した。そして再び湯の中に身体をゆっくりと沈めた。誰にも邪魔されずにこのまま眠りたいと思った。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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2006.01.11

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(36)

 そう言いながら、玲奈はもう包みを開けていた。中には四錠の淡い黄色の錠剤が入っていた。玲奈が、それらをビールと一緒に飲んだ。
 「ビールと一緒よ」

 日未子が驚いて久実に訊いた。
 「いいのよ。なんだって。お腹に入れば一緒だから」
 久実もビールで錠剤を飲んだ。日未子は、梅サワーで飲んだ。本当にビールでも梅サワーでも効果は同じ
なのだろうか。日未子は疑問に思わないでもなかったが、久実のあっけらかんとした表情を見ていると、ま
あいいかという気になるから不思議だった。
 「これ、貰うね。なんだかよさそうだから」
 玲奈が箱を持ち上げた。
 「だめだめ。高いんだから。三十包入りで五千円よ」
 「ああ、そう。高いんだ」
 玲奈は残念そうに箱を机に置いた。
 「いいわ。玲奈には十包を特別に上げる。よかったらお客になってね。日未子はどう?」
 久実が訊いた。
 「私は次の機会に頂戴。玲奈ほどサプリメントに興味がないから」
 「日未子はあまりサプリメントを飲まないの?」
 玲奈が訊いた。「あんまりね。ビタミンCくらいかな」
 日未子が言った。
 「私なんか、毎食後、ピルケースから何種類も取り出して飲むわよ。ビタミンCは勿論、B12、カルシウム、亜鉛、鉄、コエンザイムQ10、セサミン…」
 「そんなに! なぜ?」
 「なぜって…。不安なのかな?」
 玲奈が小さく首を傾げた。
 「二十九歳という年齢がサプリメントを飲ませるのよ。諦めて三十歳になってもいいかと思うのだけれども、ちょっと抵抗してみよう。そうしないとどこか満たされないところがある。そういう感じじゃないの」
 久実が真面目な顔で言った。
 「そう、そう、そういう感じ。効果も期待しているのだけれども、それよりも肌なんかに年齢を感じるのが怖いのよ。サプリメントを飲んでいると、戦っているぞって気持ちになって不思議に張りが出てくる気がするのよ」
 玲奈が言った。
 「効果は期待していいわよ。うちの製品は大丈夫だわ」
 久実が再びセールス・ウーマンの顔になった。
 その後も三人で延々とサプリメントと健康の話題で盛り上がったのだ。

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2006.01.10

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(35)

 沖縄に来る前に、日未子は玲奈と久実と三人で歌舞伎座のすぐ近くにあるプロントでしたたか飲んだ。久しぶりに会ったので話がはずんだのだ。
 プロントは、昼はカフェだが夜はバーに変わる。モルツ生ビールや焼酎、ウオッカなどアルコール類ばかりでなくパスタなどの料理もだいたい五百円程度だ。それに結構おいしい。店内も健全な雰囲気で女性だけのグループでも気楽に飲めるので日未子たちはよく利用していた。

 その時、新製品だと言って久実が持ってきたのが「セルフメディックス・ガンマ」という健康食品だ。
 「ローズマリーってラテン語で海のしずくって言うのよ」
 久実が、生ビールを片手に話し始めた。もうすっかり健康食品のセールス・ウーマンになりきっている。
 「海のしずく? 知らなかったわ。
 なぜそんな風に言うのかしら。ローズマリーって緑色でしょう」
 日未子が訊いた。
 「海辺に多く生息しているのよ。その花が小さくて水色をしているから、そんな名前になったんじゃないかな。
でも海と同じくらいエキスが詰まっているのよ」
 久実が身体を乗り出してきた。
 「いよいよセールスに熱が入ってきたわね。ちゃんと聞きますよ。私、サプリメントには目がない方だから」
 玲奈が、酔ったような目で言った。
 「ナガセはね。ローズマリーの研究では世界の最先端を行っているのよ。それに含まれている抗酸化成分がア
ンチエイジング、即ち老化防止に役立つことも発見したのよ」
 「確かハンガリーウオーターって世界初の化粧水はローズマリーから作ったって聞いたことがあるわ」
 玲奈が言った。
 「そんなに話に詳しければ、言うことないわ。これはねローズマリーから作った肝機能を整えるサプリメントよ。とてもいいのよ」
 久実は机の上に箱を置いた。その箱には、セルフメディックス・ガンマと書かれてあった。
 玲奈が関心ありげに箱を掴んだ。
 「本当に効くの?」
 「騙されたと思って、これ飲んでみなさいよ。明日、間違いなくすっきりしているから」
 箱の中から三包を玲奈が取り出した。
 「いいの? 高いんでしょう」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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2006.01.09

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(34)

 玲奈がバスの中に入ってきた。湯が溢れそうになる。
 「湯が溢れる!」
 玲奈が両手で湯を掬って、日未子の顔にかけた。
 「あっ、やったな!」

 日未子が攻撃し返す。玲奈がやり返す。二人の歓声がバスルームに響く。辺りが湯気で煙り始めた。床がずぶ濡れになった。
 「玲奈のパジャマもずぶ濡れ」
 「私のだってよ。でもここに干しておけば直ぐ乾くわ」
 日未子は、玲奈と向かい合って湯船に浸っていた。お互いに足を伸ばすと、玲奈の足が日未子の腰に触れ、日未子の足が玲奈の腰に触れている。
 「私、何しにここに来たんだっけ」
 「ガンマがないかって騒いでいたわよ」
 「そうそう、飲んだ朝は、あのガンマがないと調子が出ないのよ。日未子も飲む?」
 「ガンマって久実が販売しているのでしょう?」
 吉永久実。ミズナミ銀行に一緒に入行したが、早々に退職して化学品・合成樹脂などの専門商社として有名な長瀬産業に転職した。化学品でも販売しているのかと思ったら、その関連会社のナガセビューティケァという会社で健康食品や化粧品の販売企画をしている。明るくさっぱりとした性格で、くっきりとした目が印象的な、どちらかというと可愛いタイプだ。彼女は、めっぽうアルコールが強い。男性にも引けをとらない。たいてい相手が酔い潰れてしまう。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は2005年12月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されております。

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2006.01.06

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い(33)

 「ねえ、日未子、ガンマない」
 玲奈の寝ぼけたような声が遠くに聞こえる。
 「やだぁ、お風呂で眠るなんておじさんみたい」
 白いパジャマ姿の玲奈が視界の中にぼんやりと入ってくる。

 「日未子、随分、水着の跡がくっきりしているわね。パンダみたいよ」
 玲奈が湯に沈んだ日未子の身体を覗き込む。
 大きな湯の音を立てて、日未子が身体を起こした。
 「玲奈、突然、入ってきて嫌なことを言わないでよ」
 「でも本当のことなんだもの」
 玲奈は悪びれない。
 「あなたはどうなのよ」
 日未子が意地悪そうに訊いた。
 「私…、見せてあげようか」
 玲奈が、にんまりと微笑みながら日未子に顔を突き出す。
 「見せてよ」
 「いいわ」
 玲奈は、鼻歌を歌いだした。パジャマのボタンを一つ一つ確認するように外し始めた。するりと上着を脱いで投げた。白くて形のいい乳房が揺れた。ズボンも躊躇なく脱ぎ捨てた。玲奈が足を抜くと、その場で丸い形になって残っている。素裸だ。裸の身体にパジャマを着ていたのだ。
 玲奈は小柄で痩せてはいるが、乳房にも張りがあって女性である日未子から見ても均整の取れた美しいスタイルをしている。透き通るように白く、肌理きめ細かい肌。羨ましい。
 「下着着けてないの?」
 「着けてないわよ。窮屈でしょう」
 「まあね」
 「どう? 焼けてないでしょう」
 玲奈はショーのようにその場でくるりと身体を回した。バスルームの明かりに映えて、身体が一段と白く輝いている。
 「驚いたわ。沖縄で泳いだのが嘘みたい。雪ん子よ」
 「当たり前。ちゃんと全身に注意深く日焼け止めをしなくちゃだめよ。真っ黒な顔や身体で男性の前に出られないでしょう」
 「そうかな。適当に焼けているほうが健康的でいいわよ。それに愛するためには優しい心さえあればいいわ」
 「そんなことはないの。愛されるためには美しい身体と優しい心の二つが必要よ。男はね、女の白い肌に弱いの」
 玲奈はもう一度、くるりと回って見せた。玲奈は、男性に好かれるけれどこの白い肌を見せる特定の恋人がいな
かったはずだが…。
 日未子は目を輝かせて、
 「残念ね。玲奈の白い肌を綺麗ねって言ってくれる人がいなくて」と皮肉っぽく言った。
 「言ったなぁ。許さないぞ」

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.05

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (32)

 まるで映画「アメリカン・ビューティー」の金髪の美少女のようだ。ケビン・スペイシーが演ずる中年のダメ男が、美少女に妄想を抱く、コミカルで、切なくて、残酷な物語。

 その映画で一番美しく、残酷な映像が、薔薇の海に身体を横たえながらケビンに微笑む美少女だ。
 赤い薔薇はアメリカン・ビューティー。アメリカの家庭で育てられている最もポピュラーな薔薇。薔薇は、ケビンたち男性にとって美少女の象徴なのだ。そして薔薇の花と花びらの一枚一枚は男性にとって女性そのもののシンボルなのだろう。
 うっとりと目を閉じる。利洋がヌヴォラブルーのアルファロメオ・アルファ156に乗ってやってくるのが見える。
 「アルファはレッドもいいけれど、このヌヴォラブルーが最高だよ。見る角度、光の具合で虹になるんだ。日未子のように変化に富んでいるんだよ」
 アルファを語る時、利洋は子供のようになる。日未子について語るより情熱的になるのが悔しい。年齢だけ考えると、美少女に憧れているケビンと同じ中年なのに…。そこが利洋の魅力なのだろう。
 利洋が、助手席から取り出したのは、持ちきれないほどの薔薇の花束だ。頬を照れくさそうに薔薇色に染めて、花束を日未子に差し出す。日未子の頬も薔薇色に染まり、甘い香りに全身が包まれる。
 薔薇の名前は…、アメリカン・ビューティー。
 「ジェーンは幸せかな」
 「ええ、幸せよ。恋しているから」
 「それはよかった…」
 映画のシーンに迷い込み、日未子は登場人物たちと同じ台詞を交わしていた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2006.01.04

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (31)

 ギリシャ語のタラサは海、テラペイヤは治療。この二つを合わせた合成語がタラソテラピー。海で癒されるという意味になる。海水や海藻、海泥を使って自然治癒力を高める治療法らしい。
 店員の説明によれば、この薔薇色の塩を湯に溶かせばタラソテラピーになると言う。湯の中に塩を一粒ずつ落としていく。手のひらの上にあった時より湯の中の方が、薔薇の赤い色が濃くなったようだ。

 地球の七十パーセントは海。人間の七十パーセントは水。海は人間の本当の故郷。この塩はあなたを海に帰し、疲れた心と身体を癒します。随分と大げさな宣伝文句が書き連ねてある。
 塩が全て溶けた。そっと足から湯に身体を浸していく。心地よさが指、足首、ふくらはぎ、そして膝、太腿へと伝わっていく。ゆっくりと腰を下ろす。湯が波うちながら日未子の身体を優しく包んでいく。バスの縁に頭を乗せ、全身を伸ばす。褐色でもなく、白くもなくほどよい程度に日焼けした足が投げ出され、目の前で寛いでいる。
 水着の跡が白い。あまり跡を付けたくなかった。その部分だけが別の存在のように自己主張をし始めるのが、なんとなく不愉快だから…。
 ウエットスーツを着ていたから大丈夫かと思っていたのだけれども、船上でスーツを脱いでから雅行に誘われて泳いだのがいけなかったのだろう。
 胸の辺りに視線を落とす。その部分も自分だけは沖縄に来なかったかのような顔をしている。たくさんの湯滴が、乳房の緩やかなカーブを雪ゲレンデのようにして楽しそうに滑っている。
 日未子は雪よりも白い。なのに、温かい…。
 利洋の言葉がリフレインする。彼の息遣いが耳朶をそっと通り過ぎた。突然、身体の芯から火照り始める。湯のせいではない。利洋を身近に感じてしまったためだ。
 湯船に身体ごと沈める。湯の心地よさが、火照りを落ち着かせてくれるだろう。薔薇の甘い香りが鼻腔を優しく刺激する。湯に溶けると、固まりの時より香りが際立ってきたような気がするのは錯覚だろうか。
 バスの中が真っ赤な薔薇で埋まっている。薔薇の海に日未子の身体が浮かんでいる。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2005.12.23

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (30)

 いつしか湯がほとばしり出る音が、岩を打つ波音のように聞こえ始める。
 日未子は磯の岩に座っている人魚だ。いつまでも波の音を聞いている。
 

 陸地には、暖かそうな家々の明かりが見える。あの明かりの下には幸せがあるのではないかと人魚は考えて
いる。人魚は、優しそうな老夫婦に自分の子供を託す。子供は希望だ。見果てぬ夢だ。いつか必ず残酷に裏切られるのを分かった上で人魚は子供を託したのだろうか。小川未明の「赤い蝋燭と人魚」の悲しい話。日未子も同じだ。いつも遠くに希望を見てしまう。しかし人魚のように希望を誰かに託すようなことはしない。出来ない。裏切られるのが怖いから…。
 希望を誰かに託すくらいなら、迷いながらでも時間がかかっても明かりの下に自力で辿り着きたい。本当?本気でそんなこと思っているの?
 いつしか湯がバスを満たしていた。ああ。日未子が小声を発した。忘れ物だ。そっとドアを開ける。音がしないように部屋に戻る。幸い玲奈はまだ夢の中だ。いくら彼女が物に動じない女性だとしても素裸で部屋の中に立っている日未子を見たら、ドキリとするだろう。
 玲奈を起こさないように買い物袋の中から沖縄の塩と薔薇のエキスをブレンドした入浴剤の小瓶を取り出す。昨日、国際通りでタラソテラピーと看板を掲げていた店で売っていたものだ。
 小瓶を摘むと、再び足音を立てないようにバスルームに戻る。玲奈の寝息が背後で聞こえる。彼女は、夢の中でスキューバー・ダイビングを楽しんでいるのかしら?
 小瓶の中から、数粒の塩の固まりを取り出す。それらは手のひらの上で、ほのかに赤い薔薇色をしている。鼻先に運んでくると、薔薇の甘い香りがする。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2005.12.22

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (29)

 ベッドを見る。まだ玲奈がシーツの中で身体を丸くしている。くっきりとシーツが玲奈の形に盛り上がっている。
 時間はまだ午前七時だ。無理に玲奈を起こすことはないだろう。今日は、とくに予定もない。ゆっくりとホテルで過ごして、夕食をどこかで食べるだけだ。夕食の場所については雅行から連絡があるはずだ。彼は、ここから少し離れた場所にある東横インに泊まっている。

 玲奈が「ナハテラスに泊まろう」と言った。日未子は、雅行と同じ東横インでいいじゃないかと思った。
 断然、安いからだ。どうせホテルは寝るだけ…。「東横インの方が、ずっと安いわよ」。彼女は、ちょっと不満そうに「日未子は貧しいのね」と口元を歪めた。彼女の言い方が、悔しくて、「いいわ。ナハテラスにしましょう」と日未子は言った。玲奈は、「だから日未子が好きよ」。
 結局、二人でツインルームを一泊約34,000円で借りる羽目になった。なのに、玲奈は寝るだけ…。
 日未子は、彼女を起こさないようにそっとバスルームに入り、バスに湯を注ぎ始めた。
 バスルームは広くゆったりしている。湯の音が、玲奈の眠りを妨げないようにドアを閉めた。パジャマを脱ぎ、用意された脱衣籠に丁寧にたたんで入れる。下着も脱いだ。
 バスの縁に腰を下ろす。ひんやりとした感触が、裸の身体を僅かに緊張させる。柔らかな湯気が立ち上り、バスルームを満たし始める。手を湯に浸して温度を確かめる。丁度よい温度だ。そのまま湯をかき混ぜながら、バスに湯が満たされて行くのを眺めている。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005 12 22 [16. 小説「ニッポン・ウーマン」] | 固定リンク | トラックバック

2005.12.21

[ゴーログ]経済界に仰木監督がほしい!:野茂企業やイチロー会社は出てくるか?

 皆さん、こんにちは。木村剛です。本当に悲しいことではありますが、12月15日、元近鉄・オリックス監督の仰木彬氏が70歳で亡くなりになりました。「ベリーズ日記」さんも、悼んでいらっしゃいます。

近鉄、オリックスの監督時代に野茂、イチローというメジャー選手を育て上げ、大胆な采配と巧みな選手起用は、「仰木マジック」と呼ばれ両チームを優勝に導いた名監督です。阪神大震災があった、95年には「がんばろう神戸」を合言葉にリーグ優勝し、翌96年はリーグ連覇後、日本シリーズも制しました。・・・

新人時代の野茂のトルネード投法やイチローの振り子打法など、特異なスタイルを否定することなく選手の個性を尊重した指導が、後に大選手として二人を活躍させたのだと思います。イチロー選手も仰木氏を唯一の師としてと仰いでいます。良い指導者に巡り合うことが、どれ程人生にとって大事なことかということが思われます。

 どちらかと言えば、一律の型にはめた指導方法が幅を利かす中で、変則であろうとも、良いところは良いとして、伸ばしていく度量の広さと我慢強さは、経営者として、本当に見習わねばならないと思います。実際、そういう指導法で育った選手は、野茂にしても、イチローにしても、本当にタフ。巨人ファンには申し訳ないのですが、巨人軍の人気スターのひ弱さを全く感じさせません(松井は別ですが・・・)。
 財界にも、野茂のトルネード投法やイチローの振り子打法を髣髴させるような新興企業が続々と出てきてほしいものだと思います。そのためにも、チャレンジャーに対して、暖かい声援をかけてあげられるような社会であってほしい。チャレンジャーが実社会で成功する可能性は限りなく小さいのですから・・・。それなのに、旧来のエスタブリッシュメントの大企業に媚びを売る勢力が本当に強い。
 経済界にこそ、仰木監督がいてほしかったと思う今日この頃です。

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(読者の皆様へ)全国有力書店におきまして、「フィナンシャル ジャパン」2006年2月号は12月21日発売です。
今月の第1特集は、日本で最後の相場師といわれた是川銀蔵やスーパートレーダーとして知られる藤巻健史氏など、相場の歴史に名を連ねる相場師たちの思考パターンや海外の偉大なる投資家の教えから、相場を勝ち残るための秘訣を学ぶ特集を組んでいます。
また第2特集では、ゼロ金利という異常な金融環境が続いている中で、過剰流動性が常態化していますが、今後、政府との温度差が甚だしい中で、日本銀行の金利政策はどう動くのか、80年代の事例なども織り込みながら市場の動向についてまとめています。
特集以外でも、好評連載中の澤上篤人氏、編集長木村剛、上場社長による鼎談「上場社長の知られざる悩み」シリーズや、新連載「失礼ながら、その投資本では儲かりません」、連載シリーズ「資産株」vs「小泉株」、劇的! 国会議員とベンチャー経営者の「ウォームビズ」ビフォー&アフター、一般の人にはわかりにくい病院や医療問題に関するFJメディカル「特別編」と「ビジネス編」の二本立て、など盛りだくさんです。

2005 12 21 [16. 小説「ニッポン・ウーマン」] | 固定リンク | トラックバック

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (28)

 高台に立つナハテラスは、眼下に街が一望できる。沖縄の住宅は白い屋根が多い。白い屋根と青い空。まるでギリシャのようだ。日未子は写真でしか見たことがない憧れの国、ギリシャの景色を思った。一度は行ってみたい国だ。

 エーゲ海に降り注ぐ太陽の明るい光。白い壁の家々。どこまでも青く澄んだ海と空。わけいってもわけいっても青い山。詠ったのは、漂泊の俳人山頭火だったかしら? でも、「青い山」より「青い空」の方が相応しい? 真夏の光の中を、背丈ほどもある草木を両手で左右に分けながら、歩いていく丸い眼鏡の僧服の男。編み笠を少し上げて、空を見る。ふと捨ててきた家族や仕事を思い出す。薄く涙が滲む。
それが空を映して青く染まる。青い山って緑の山のこと?!
 日未子の目にも涙が滲んできた。
 なぜだか分からない。朝の光に包まれて、気持ちが解放されつつあるのだろうか。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.20

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (27)

 ナハテラスの朝は輝きに満ちている。
窓はまだカーテンで閉ざされているにもかかわらず、細かい糸の縫い目からいたずらっ子の光の子供たちが容赦なく部屋の中に侵入してくる。

 子供たちは日未子の瞼の上で踊りだす。彼女は瞼の奥に光の刺激を感じ始める。彼らのダンスが固い瞼の筋肉をほぐし始めたに違いない。ゆっくりと瞼を開ける。ダンスに失敗したのか、いきなり彼らの足が瞳に触れる。日未子は、まぶしくて目の前に光の華が咲いたように見え、なんどか瞼を動かしてみる。
そして横になったまま、大きく両手を伸ばした。深い息を吐く。まだ眠っていたい気もしたが、エイッと自らに掛け声をかけベッドから飛び出した。
 カーテンを力いっぱい開く。海に向かって大きく開かれた窓から沖縄の強い光が、一斉に差し込んでくる。
 日未子の全身が光のベールに包まれる。彼女はうっとりと目を閉じる。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.19

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (26)

 日未子の脳の襞がアオウミガメの動きに合わせて、溶け出している。その中から淡い記憶が流れ出してくる。なにもかもがランダムに思い出されてくる。本の記憶、子供の頃の記憶、仕事の失敗、失恋、そしておぞましき言葉である不倫…。
 

 不倫?山下利洋とのことが不倫?人の道に外れていることかしら?愛している?愛していない?結婚?結婚しない?結婚できない?銀行の上司との恋愛?日未子はそれに疲れているの?そんなことはない。なにも疲れてなんかいない。無理もしていない。あの人と私はそれぞれの立場を理解し合っているから…。
 アオウミガメが白い腹をこちらにむけた。その部分が輝いている。まるでSF映画「未知との遭遇」のUFOだ。人の心に染み入るような不思議なリズムを発信しながらUFOが宇宙の神の使者のように現われる。その姿に人々は、涙を流し、救いを感じる。
 スティーブンスピルバーグ監督はきっと海に潜り、アオウミガメと遭遇したときにあの映画を着想したに違いない。あのUFOの飛び立つ姿そのままにアオウミガメはオーロラのような光のカーテンを揺らして進んで行く。
 日未子は、水の中なのに涙が溢れてくるのがわかった。
 なぜ涙がでてくるのかしら。哀しい?うれしい?その両方の気持ちなのかもしれない。
アオウミガメの泳ぎのリズムは、日未子の気づかない間に混濁していた記憶や潜在意識などに秩序をもたらしたのかもしれない。その秩序化の過程で、不要な感情や知識や意識が涙となって流れ出しているのだろう。
 日未子は、アオウミガメの姿が遠くに小さくなってしまうまで見つめていた。
ノリがこちらに向かって泳いでくる。彼女はまるで人魚のようだ。涙で雲ってしまうとよけいにロマンチックに見える。彼女がきっとアオウミガメを呼び出してくれたのだろうと思った。東京から迷いながら自分の道を探そうとしている女が海に潜るから、ちょっといい気持ちにさせてあげてね、とでもアオウミガメに頼んだのだろうか。
 それにしても海、産み、生み、膿、倦み…。ウミという言葉も不思議な言葉だ。新しい生命の誕生と腐って爛れていく死と同じ音なのだ。この言葉を生み出した人間は哲学者に違いない。誕生と死が同じ地平にあるということを理解していたのだろう。
 ノリがオーケーサインを出す。アオウミガメを見ることが出来て、幸せかと問いかけているに違いない。日未子は、マスクの中で思いっきり笑みを浮かべて、オーケーサインを返した。
 この海に来ることができて本当によかったと日未子はあらためて誘ってくれた雅行に感謝した。
 海は、命の誕生と死の大きなサイクルの連結部のような気がした。日未子も含めて生きとし、生けるものの全てが海によって繋がっているのだ。
 今、日未子はその海に包まれていると、自分の道を探しあぐめていることなど極めて小さなことのように思えてきた。
 でもこれでまた地上に立つと迷いの森の中を歩むに違いない。それもまた楽しいことだ…。
 ノリが親指を上に突き立てた。上がろうというサインだ。雅行も玲奈もオーケーサインを出している。日未子もそれに倣った。珊瑚礁から手を離し、ノリの後についてボートを目指していく。徐々に明るく輝く海面が近づいてくる。
 海に潜るのは今日で最後だ。明日一日、ホテルなどでゆっくりとすることになっている。そしてその次の日は東京だ。もっともっとここにじっとしていたい。そう日未子は痛切に思った。
きっとまた帰ってくるからね…。
 日未子は、誰にともなく手を振った。



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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.16

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (25)

 日未子はイソギンチャクに保護されているクマノミを指先でつついていた。ディズニーアニメでみたファインディングニモの主人公だ。クマノミは日未子の指を敵の攻撃だと思ったのか、いきなり噛み付いた。
 イタッ!
 日未子は意外なほどの痛さにその指を思わず口に運んだ。勿論、レギュレーターを咥えた口で指を舐めるわけにはいかない。

 恨めしそうな目でクマノミを睨んだ。クマノミは可愛い身体には似つかわしくない鋭い歯を日未子に向けて、ガチガチと噛み合わせたように見えた。
 苛めたんじゃないのに…。
 背中を誰かが指でつついている。振り返るとノリが慌てたように指を突き出し、その方向を見るようにと教えている。
 日未子はノリの指の方向に視線を向けた。
 亀だ。アオウミガメだ!
 日未子は叫びだしそうになった。指でオーケーサインを作り、何度もノリに突き出した。ノリがマスクの中で微笑んでいるのが見える。隣を見ると、雅行も玲奈も身体が流されないように珊瑚に捉まって、アオウミガメを見つめている。
 アオウミガメは、私たちの存在など全く気にかけない。気づいても驚きも慌てもしない。ライトブルーの透明な海に太陽が差し込み光のカーテンがオーロラのように揺れる中を、四本の足ひれをゆっくりと、本当にゆっくりと動かして滑るように泳いでいく。
 ああ…。
 日未子はため息を洩らしそうになった。頭の中が全てアオウミガメのゆったりとした動きに支配され、アルファ派で満たされていくのが実感される。
 ふと「ゆらぎ」という言葉が浮かんだ。意味ははっきりとは分からない。しかし「ゆらぎ」という言葉をイメージしただけで心がある一定のリズムを刻み始めるような落ち着いた気になる。
きっとアオウミガメの誰にも邪魔されない優雅で落ち着いた手足のリズムが水中の中を静かに伝わり、日未子の身体を包んだのだろう。
 日未子はこのゆらぎのことをどこで得た言葉なのだろうかと考えた。臨済宗の僧侶で作家の玄侑宗久の「禅的生活」だと思い出した。
 水に砂糖を入れた場合に砂糖の分子がどんどん均一に拡散し、やがて平衡状態に落ち着くように、新たなエネルギーが加わらない限りあらゆる物質は秩序から無秩序へと移行していく。それがエントロピーの法則。しかしこれに反した動きもあるはずだ。それが「ゆらぎ」。非平衡化に向かう力。再び新しい力を得て、秩序形成を続けていくのが自然界、宇宙の法則の根源…。
確かこんな意味のことが書いてあった。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.15

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (24)

 「日未子は、惚れやすいのは確かかな。仕事もするのに、恋もするってタイプ」
 玲奈が小さく頷いた。
 「なによ。玲奈まで、からかうのはよしてよ」
 「玲奈さんはどうなんですか」
 ノリが訊いた。

 「ノリさんが言った二十代を過ぎてっていう言葉、それキーワードじゃない?今、私たちぎりぎり二十代でしょう。結婚か仕事かって迷うのよね。迷いの二十代?それを過ぎるときっと憑き物がとれたように仕事に邁進するような気がするな…」
 「結婚って憑き物かよ!」
 雅行がオーバーに船縁で身体を反らす。
 「あっ!」
 ノリが叫ぶ間もなく、雅行の身体が船縁から消えた。すると大きな水音。
 「落ちた!」
 日未子と玲奈が雅行の落ちた場所に駆け寄り、覗き込んだ。
 「ヤッホー」
 雅行は仰向けに泳ぎながら手を振っている。雅行の身体の回りに水紋が広がっている。波はない。
 「びっくりさせないでよ」
 日未子が怒ったように言った。
 雅行は、日未子の抗議など気にしないで、身体を反転させると、素潜りで海中を目指した。海が透明なために雅行の潜る姿がよく見える。
 「私も泳ぐ」
 玲奈が船縁に立つと、いきなり飛び込んだ。雅行の時とは違う深く突き刺さるような水音。玲奈は水泳か飛び込みを習っていたに違いない。無駄のない水音だった。
 玲奈も雅行の後を追って、素潜りを始めた。水着の赤い縞柄が水中花のように美しく咲いた。
 「日未子さんも泳ぎますか」
 ノリが食器やポリパッケージを片付けている。
 「仕事、恋愛、結婚、勉強なんでもやりたいのよね」
 日未子が、海面に顔を出した玲奈に手を振りながら呟いた。
 「たくさんの希望があって羨ましいですね」
 ノリが囁いた。ノリは微笑みながら日未子を見つめていた。日未子はノリの優しい笑みを見て、逆に羨ましいと思った。彼女の表情が、自分の生き方を見つけ、それに自信を持っているように思えたからだ。
 「私も泳ぐ!」
 日未子は声を上げると同時に船縁を勢いよく蹴った。
 「行ってらっしゃい!」
 ノリが大きな声で後押しをした。
 日未子の身体が宙に舞う。目の前の渡嘉敷島にぶつかりそうだ。青い空に吸い込まれ、そして空との境がないほど青い海に身体全身で落ちて行った。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は11月21日発売の「フィナンシャル ジャパン」に掲載されています。

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2005.12.14

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (23)

 日未子にもノリの気持ちが分かる気がした。毎日、緊張しながらビジネスの現場で生きていると自分のペースなど守れる人はいない。恐らくトップリーダーは自分のペースを守っているのだろうが、その周辺にいる日未子たちはリーダーのペースに合わせて生きている。もし合わせることが出来なかったらそれは脱落を意味する。
 「ノリさん、結婚は?」
 

 日未子が訊いた。
 「まだですよ」
 ノリは、小さく笑った。
 「結婚はしないのですか」
 「しないと無理に決めたわけではないのですが、まあ、成り行きではないでしょうかね」
 「成り行きですか?」
 日未子は、ノリのあまり関心のない返事に不満だった。
 「結婚に強く憧れたのは二十代までじゃないでしょうか。それを過ぎて、ショップをオープンしたりして忙しくなると あまり考えなくなりましたね。なんだかショップが自分の産んだ子供のような気がして、一生懸命になったんですよ」
 「二十代までか…」
 「日未子さんこそ結婚しないのですか」
 ノリが訊いた。微笑している。
 「私?」
 日未子は自分に指を突きたてた。
 「日未子は恋多き女なんですよ」
 雅行がからかった。
 「何を言うの!舟から落とすわよ」
 日未子が怒った声で言った。でも顔は笑っていた。
 「恋が多いんですか」
 ノリが笑った。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.13

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (22)

 日未子は、彼女が日経BP社から出版した「三十路の手習い」を読んだことがあるが、そこには家庭と仕事と大学院生活を鼎立させている姿が生き生きと描かれていた。それは彼女にとって憧れの生き方に思えたものだ。

 その人が後ろにいる、そう思うと日未子はなんだか心が熱くなるようだった。
 「ノリさんが沖縄にはまってしまった気持ち、なんとなくわかるわ」 
 玲奈がもう一つお握りを摘んだ。
 「この海に潜ったら、もう二度とここを離れるものかって気になりますでしょう。沖縄に来てよかったのは、自然の大きさ、偉大さの中で暮らすと謙虚になることですね。謙虚になると自分のペースで生きていけばいいという気持ちになります。そうなってしまうともうここが離れられなくなってしまいますね」
 ノリが船縁に腰掛けて海に視線を向けた。
 「そうね。これだけの景色、自然の中で暮らすと、謙虚にもなるし、私の中に溜まった毒素がみんな出て行ってしまうような気がするわね」
 玲奈もうっとりとした目で海を眺めた。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.12

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (21)

 「知っていたんだったら、もっと先に教えてよ」
 日未子は言った。
 「ここにはみんな干渉されたくないから来ているのに、ジロジロ見たりしたら悪いじゃないか」

 雅行は、呆れたという顔で日未子を見た。日未子は、確かに雅行の言う通りだと思った。せっかく仕事の疲れを癒しに来ているのに幾ら見られる仕事だといっても、周りから監視されていては楽しくないだろう。
 日未子は、もう一度振り向いた。
 八神は、綺麗な背中を見せていた。彼女は三十二、三歳のはずだ。大東京テレビのアナウンサーだったのを現在の夫である人見透と出会い退社してフリーになった。その後も大学院に通ってマスターになるなど、仕事と私生活を充実させている。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.09

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (20)

 「ご両親、喜んだでしょう」
 玲奈が訊いた。
 「ええ、まあなんとかね」

 ノリは、照れくさそうに鼻の下を指で擦った。
 「あちらでお世話をしているウラちゃんは、沖縄の人なんですけどね。一緒にショップを手伝ってもらっています」
 日未子は、振り返ってウラが世話をしている夫婦らしき男女をみた。女性の顔はどこかで見たことがあった。
 「ねえ、雅行、あの女性、タレントじゃないの?」
 「ああ、日未子はとっくに気づいていると思ったよ。あれはフリーアナウンサーの八神真央さんだよ。一緒にいるのはご主人でスポーツジャーナリストの人見透さんさ」
 雅行は、こともなげに答えた。
 「八神さんって港テレビで朝の情報番組の司会をやっている人?どうりで見たことがあるんだ」
 「うちのライバル番組だよ」
 雅行は汐留テレビに出入りしていた。



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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.08

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (19)

 「ノリちゃんは幾つ?」
 雅行が無遠慮に聞いた。
 「女性に年齢なんか聞くものじゃないわよ。だから雅行はもてないのよ」
 日未子が口を尖らせた。

 「いいんですよ。そこが雅行さんのいいところですから。では問題。ノリはいったい幾つでしょう?雅行さん、答えて、ハイ!」
 ノリは、雅行にぐいっと顔を近づけた。雅行は一瞬、慌ててのぞけるように身体を反らせた。
 雅行は、さも深刻な問題であるかのように腕を組み、眉根を寄せた。
 本当に真剣に考えているのかしら。
 日未子にはノリは同世代のように見える。日焼けした顔を崩して笑うところなどはなんとなく子供っぽいし…。
 「四十ってことはないしね…」
 雅行が片目を開けて、ノリを見る。
 「ひどい!雅行、本気で言ってるの」
 日未子が怒った。
 「そうよ。雅行君、そんなありえない冗談を言って!」
 玲奈も怒り出す。持っていたサンピン茶のペットボトルを雅行に投げかねない勢いだ。
 「ごめん、ごめん、うそ、うそ。冗談、冗談。二十九歳」
 雅行は苦笑いを浮かべながら、頭を抱えた。
 「残念でした。三十四歳」
 ノリが舌を出す。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.07

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (18)

 「三十四歳?へー、見えないな…」
 雅行がオーバーなアクションで驚いてみせる。
 「今さら、遅いわよ。三十四歳がどんなものなのかも分からないくせに」

 ノリがわざと怒った顔をした。
 「見えないですよ。ノリさん、三十四歳には…。私たちと同い年くらいかなと思っていました。雅行君が三十歳、私と日未子が二十九歳ですものね」
 玲奈が言った。
 「沖縄という自然に囲まれていると若くなるのかな。沖縄の人は長生きだしね」
 日未子も同調した。
 「若く見ていただいて、お世辞にもうれしいです。保母の時に、沖縄に来て初めてダイビングを経験して、はまっちゃったんですね。それでそのまま沖縄に居ついてフリーターですよ。それから自分でダイビングショップを開くことができて…」
 「えらいな。自分でお店を持つなんてね」
 日未子が感心したように言った。
 「まあ、自慢するほどの大きな店ではなくて、小さな店でしたけれど。それでも一国一城の主でしょう。両親に見てもらいたくて、初めて沖縄に呼びました」
 ノリが嬉しそうに目を細めた。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
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2005.12.06

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (17)

 「愛知県で保母さんをしていたんですよ」
 ノリが笑顔で言った。ノリの細くてしなやかな身体は健康そうに日焼けしている。笑うと白い歯がいっそう引き立つ。

 日未子は、雅行からノリを紹介された。ダイビングは全く初めての日未子と玲奈は、インストラクターを誰にするかなどは、一切合切、雅行に頼り切っていた。
 雅行は迷うことなくノリを選んだ。彼がテレビ番組の取材でCカードを取得したときのインストラクターが彼女なのだ。
 彼女は個人でダイビングショップであるダイブフリークを経営しているが、雅行から教えられた情報は、ノリという愛称だけだった。本名も何も知らない。それでなんとなく日未子はノリがインストラクターになった経緯に興味があって前職を訊ねてみたのだ。
 「保母さんだったの」
 日未子は、保母さんからダイビングインストラクターへの鮮やかな転身を驚きで思い描いた。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.05

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (16)

 日未子は店のウインドーに映った自分の顔を眺めた。ふと海亀が会いにおいで、と言っているような気がした。
 「わかったわ。友達を一人連れて行くわ。いいわね。雅行と二人じゃ襲われたら大変だし…」

 「襲わないさ。それより水着だけは忘れないでよ。裸で泳がれると困るからね」
 雅行は、にんまりとして片目を閉じた。
 「ばかねぇ」
 日未子は、苦笑した。雅行は、焼酎のグラスを高く掲げ、
 「準備は俺がするから、乾杯」
 と言った。
 日未子も焼酎グラスを掲げた。誘う相手は玲奈に決めていた。彼女と夏休みを合わせる計画をしていたからだ。




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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.12.02

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (15)

 「マンタには会えるの?」
 日未子は訊いた。

 マンタというのは全長四メートルほどもある巨大なオニイトマキエイのことだ。海中を優雅に泳ぐ姿を何度かテレビで見たことがある。
「マンタはなかなか難しいけれど、海亀、アオウミガメには会えるかもしれないよ」
 雅行が真剣な顔をした。
 海亀か…。日未子は海亀が足ひれを優雅に動かしている姿を思い描いた。
「日未子は海亀に似ているじゃないか。いや、悪い意味じゃないよ」
「そうね。時々、言われるのよ。海亀似だってね」
051202 
Photo by (c)Tomo.Yun



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2005.12.01

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (14)

 「経験ないわ」
 日未子が突然の誘いに躊躇したが、雅行は、
 「大丈夫さ。いいインストラクターがいるんだ。ノリちゃんっていってね。素敵な女性さ。その子がちゃんと指導してくれるから全く心配ないさ」
 と譲らない。

051201
Photo by (c)Tomo.Yun


 「雅行は、ダイビングをしたいの?それともそのノリちゃんに会いたいの?」 
 日未子が笑いながら言った。雅行は、「両方かな」と笑みを浮かべた。
 「青い空、青い海、どこまでも透明な海に潜ると色とりどりの珊瑚礁、舞い踊る色鮮やかな魚たち。究極の癒し。慶良間の海…」
 雅行が、目を閉じて、旅行会社の安物の観光案内みたいな文句を並べ立てた。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.11.30

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (13)

 玲奈は現在二十九歳。日未子の銀行同期だ。彼女は投資信託などを販売する個人部にいる。聖心女子大というお嬢様大学の出身者だが、「聖心の落ちこぼれ」と自認するさっぱりとした女性だ。スタイルもいい。美人でもあり、知的な雰囲気が人をひきつける。

 ある日、日未子は、雅行と久しぶりに会って新宿で飲んでいた。すると突然、雅行が沖縄へのダイビング旅行に行かないかと誘った。彼がPADI認定の「Cカード」を取得したというのだ。
PADIというのはアメリカのカルフォルニアに本拠地を置く世界的なスクーバー・ダイビングの教育機関だが、その 機関がオープンウオーターダイバーとして一緒に潜るパートナーであるバディさえいれば、インストラクターなしでも潜れる資格がCカードだ。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。

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2005.11.29

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (12)

 日未子は現在二十九歳。もう半年で大台の三十歳に届く。早稲田大学政治経済学部などというなんとなく女性っぽくない、骨太イメージの大学を卒業し、今はメガバンクであるミズナミ銀行の営業部に勤務している。すらりとした体形だが、ツンツンとした近づき難いということはない。顔から受ける印象などはどちらかというと可愛いタイプだ。

 雅行は現在三十歳。日未子と同じ早稲田大学で英語サークルいた。同級生だ。スポーツマンタイプでなかなかのイケメンなのだが、口を開くと冗談ばかり言う。大阪出身だから関西芸人の血を引いているのではないかと思うほどだ。
 冗談を言い合っているうちに日未子のよき相談相手にはなったのだが、恋人にはならない。しかしいわゆるキープ君でもない。強いて言えば、「ザ・サード・マン(第三の男)」だろうか。日未子のそばになんとなくいつもいる。
日未子も振り向けば雅行がいるということが当たり前になっている。今は、テレビ番組制作会社のAD(アシスタントディレクター)をしている。民放の情報番組を作っている。


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2005.11.28

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (11)

 雅行が「もぐりに行かないか」と誘ってくれなければ、ここにいることはなかった。
 「ありがとう」
 日未子は、雅行に礼を言った。

PW017794
 

 とても落ち着いた気持ちだった。東京にいるのとは大違いの平穏な気持ちだと思った。
 波はほとんどなく、静かで大きなプールにボートを浮かべているようだ。目の前に渡嘉敷島、少し離れて座間味島が見える。緑の島々、ブルーの空と海。もう何も望むことが出来ないほど完璧な美しさだ。
 日未子は、胸がはちきれるほど空気を吸い、そして吐き出した。深く息をするということは、こんなにも心地よいことなのだと日未子はダイビングに来て、初めて知った。

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2005.11.25

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (10)

 「さあ、準備が出来ましたよ。食べましょう」
 ノリが声をかけた。ボートの床に白いソーメンがお弁当用の透明なポリケースに入れられ、それにはソーメンつゆとねぎ、削った生姜が添えられている。そのほかに別のケースにはお握りやから揚げ、蛸にカットしたウインナー、パイナップルなどがあった。

 「これが雅行の言っていたボートで食べるソーメンね」
 玲奈がつゆに生姜を溶きながら言った。
 「そうなんだ。これが最高でね。普通は市販の弁当を持ってくるんだけど、ノリのところはこうして手作りのお弁当なのさ。その中でもこのソーメンが最高!」
 雅行は、相好を思いっきり崩しながらソーメンをすすっている。日未子も早速、ソーメンをすする。
 雅行の言うとおりだ。最高に心地いい。痛いような夏の日差しの中でソーメンは最適だ。冷たく喉を刺激しながらたいした抵抗もなく胃に収まっていく。
 「おいしいわ」
 日未子と玲奈が同時に笑顔になった。
 「俺の誘いに乗ってよかっただろう」
 雅行が、口いっぱいにソーメンを含みながら、胸を反らした。

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2005.11.24

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (9)

 大小三十あまりの島々で構成されている慶良間諸島は、水深五十、六十メートル近くまで見通すことの出来る透明度を誇っていた。
 ノリが「あまり透明度が高いので、深く潜っても直ぐ手の届く先に海面があるような気がするんです。深く潜った実感がないので、かえって危ないことがあります」と注意したほどだ。

 PW018495


 初心者である日未子は十数メートル潜っただけなのだが、見上げると太陽の光にまばゆく輝く海面が、ノリの言うとおり間近に見え、思わず手を伸ばしてしまった。
 また珊瑚礁が海の中に豊かな森や山を作っていて、その中を無数の色鮮やかな魚たちがゆうゆうと泳ぐ。それは竜宮の伝説を信じたくなるような光景でもあった。


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2005.11.23

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (8)

 「さあ、お昼にしましょう」
 ノリが船室から冷蔵ボックスを運んできた。
 「おお、腹減ったぞ。ノリちゃん、いつものソーメンある?」
 「ありますよ。焦らないで待っててください」
 ノリが皿などを並べ始めた。

 ボートの上には日未子たちの他にもう一組の男女がいた。三十歳代の夫婦のように見える。彼らも女性インストラクターと一緒に食事をしていた。インストラクターは、ノリが経営するダイブ・フリークのウラだ。
 朝、八時にノリが日未子と玲奈が泊まっているナハテラスに車で迎えに来た。港を高速ジェットボートで出発したのが八時半。一時間あまり波を切って西北に進んだところにダイビングスポットで世界的に有名な慶良間諸島がある。


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2005.11.22

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (7)

 「ごめんなさい。あまりに海底の砂浜が素晴しかったものだから、ノリさんの指示に気づかなかったみたい…」
 日未子は、濡れた髪の毛をバスタオルで覆った。
 「だめだよ。海ではノリちゃんの言うことを聞かなくちゃね」

 雅行が心配そうな顔をした。
 「日未子は、すぐ没頭しちゃうからね」
 玲奈がボートの縁に身体を預けて、長い足を伸ばしている。赤い縞柄の水着がなんとなく子供っぽくて可愛い。
 「本当にちょっと焦ったのですよ。みんな私の後ろをついてきているとばかり思っていたのに。上がってみたら、まだ下に日未子さんがじっとしているんだもの。まるでお地蔵様みたいだったわ」
 ノリが日未子のウエットスーツをたたみながら、笑った。
 「お地蔵さまはいいや。日未子地蔵。あまりご利益ないな」
 雅行が手を叩いて、笑みを浮かべた。


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2005.11.21

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (6)


ボートに上がると、雅行も玲奈も既にウエットスーツを脱いで寛いでいた。
日未子は、船尾に腰掛けて、ノリから空気ボンベを外してもらった。海から上がると、途端に重力と錘とボンベの重さに身体がへたり込むようになる。息が速くなる。水中のようにゆっくりとはいかない。象からハツカネズミに変わったように、ハッ、ハッと息を吐く。

 1121  



 「日未子さん、一緒に上がってこないとダメですよ」
 ノリがボンベを片付けながら日未子に注意をした。
 日未子は、雅行と玲奈の三人でノリに引率されていたのだが、日未子だけ上がるのが遅くなったのだ。


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昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は本日発売の「フィナンシャルジャパン」に掲載されます。

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2005.11.18

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (5)

 ノリが親指を上に突き出した。そろそろ上がろうという合図だ。日未子はオーケーのサインを出した。フィンで海底を蹴る。白い珊瑚の砂が巻き上がった。身体がふわりと浮き上がる。。

 日未子が両手を伸ばすと、ノリがしっかりと掴んでくれた。やはりノリのような優雅な水中の舞いというわけにはいかないようだ 
 日未子はノリにリードされながら、ゆるゆると上昇していく。水中から空を見上げると、そこには広大な光のスクリーンが広がっている。やがてその光のスクリーンに包まれ、日未子の身体は白く輝き始める。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は今月21日発売の「フィナンシャルジャパン」に掲載されます。

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2005.11.17

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (4)

 人間は、重力に支配されて地上に縛り付けられて暮らしている。この重さは並大抵ではない。思いっきりジャンプしたとしても数秒と宙に浮かんでいることはできない。

 これは物理的な意味ばかりではなく、心理的にも言えることだ。陸上で人間は物理的、心理的な重力で地に圧しつけられている。それだからこそ人間は、昔から無重力に憧れ、宙に浮かびたいのだ。それは全ての、自分を圧し潰す重力からの解放だ。
 ふと日未子は、自分が水中に浮かんでいる姿を鏡で見たいと思った。ノリの人魚のような姿を見て、そう思ったのだ。自分もノリのように優雅に浮かんでいることが出来ているのだろうか?

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は今月21日発売の「フィナンシャルジャパン」に掲載されます。

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2005.11.16

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (3)

 日未子は自分の息の音に耳を澄ませる。ボンベから吸い込まれた圧縮空気は、レギュレーターから彼女の口を通って肺を一杯に膨らませた後、赤い血と一緒にゆっくりと身体の隅々を巡る。そして再び肺に戻り、吐き出される。身体の中を一本の太い川のように流れる空気の音が日未子の耳殻を震わせている。

1

Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net 

 目を閉じて聞いていると、記憶にない記憶が呼び起こされる。それは母の胎内にいた時の記憶だ。全てが完璧に保護され、完璧な安心感の中で羊水の中で漂っている自分の姿…。
 インストラクターのノリが水中をゆるやかに日未子に向かって近づいてくる。無重力の宇宙で船外活動をする宇宙飛行士のように見えるが、細身のノリを喩えるなら優雅な人魚の方がいいだろう。
人間が宙を浮かぶ姿を見ていると日未子は心から愉快になってくる。それは面白いという意味ではない。心地よいという意味での愉快なのだ。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


(追伸)この「ニッポン・ウーマン」は今月20日発売の「フィナンシャルジャパン」に掲載されます。

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2005.11.15

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (2)

 ウエットスーツを着てマスクを装着し、空気ボンベを担ぎ、レギュレーターを咥えた姿は宇宙飛行士そのものだ。海底には白い珊瑚の砂浜が広がり、目の前は丸い小山のような珊瑚礁の峰がどこまでも続いている。

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(C) NatureOkinawa.COM


 視線を少し上に向けると夏の日の光が、日未子の佇む海底にまで差し込んでくる。水はライトブルーに輝き、あくまでも透明だ。その透明な水を揺らしながら、日未子の吐く息が無数の泡となって海面へと駆け上がっていく。丸いビー玉が我先にと、ころころ転がって行く様子は愛おしささえ感じるほどだ。時折、キボシスズメダイの群れがマスクの前を彩りながら通過していく。聞こえるのは自分が吐く息の音だけ。
 息って、こんなに深いものだったかしら…。


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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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2005.11.14

[ブログ小説] ニッポン・ウーマン 第一章 海の誘い (1)

第一章 海の誘い
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 スペース・カウボーイみたい…。
 日未子(ひみこ)はクリント・イースト・ウッドが主演したSFアクション映画のワン・シーンを思い出していた。

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 それは宇宙飛行士の夢を果たせなかった老パイロットたちが、もう一度夢を果たそうとする物語だ。
 彼らは核兵器を積んだ旧ソ連の人工衛星が地球にぶつかろうとする危機を決死の覚悟で回避しようと宇宙に飛び立つ。そしてトミー・リー・ジョーンズ扮するパイロットが自ら犠牲になって人工衛星を月に向かわせるのだ。
 日未子は、その映画のラストシーンが好きだった。宇宙服姿のトミー・リー・ジョーンズが、月の静かの海の岩に寄りかかりながら遠く輝く地球を眺めている。ヘルメットに覆われているので彼の表情を外から覗うことは出来ないが、満足そうな微笑を湛えているに違いない。
 日未子は、今、トミー・リー・ジョーンズになっていた。

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【著者】 江上 剛 (えがみ ごう)
昭和29年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部卒。第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。広報部次長時代に対応した総会屋事件が、映画「呪縛・金融腐食列島」のモデルとなる。平成15年退行、作家専業に。主な著書に「非情銀行」 「起死回生」「腐蝕の王国(上・下)」など。


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